「ドン・キホーテ」はなぜ面白いのか、答えが突然!?  #31

キホーテとサンチョの二人は、他人のアイデアに基づいて「設定」した登場人物だった。作者の感情は正副主人公からは読み取れないし、二人への共感も強くない。むしろ喜劇的要素を満載し、読者と共に笑いのめすべき対象として造形されている。他人のアイデアに発した主題に基づく人物たちなので、たとえば自己を投影するような表現には向かないのは当然だ。キホーテ主従は、セルバンテスが自らの来し方を仮託できるような人物像からほど遠い。二人のおかしくも惨めな有様に、作者の幸福とは言えなさそうな実人生はいくらか反映されているかもしれないが、作者が二人に感情移入する気配はない。キホーテは、徹頭徹尾、自業自得で狂気を得た喜劇的人物として造形されている。キホーテが時に崇高に見えるとしたら、それは喜劇的造形の徹底性故なのである。

自業自得とは正反対、裏切られたり絶望したりすることが人を狂気を導引するとしたら、セルバンテスこそが狂気に陥るべき人物だった。作者セルバンテスの実人生は挫折の連続だった(その生涯については、岩波文庫版前編(三)の牛島信明による簡にして要を得た解説を参照していただきたい)。しかしながら、セルバンテスが生きた時代、作家が自身の人生について告白するなどという小説作法は存在しなかった。

「ドン・キホーテ」を真に自らの作品とすべく、自身の人生を虚構の内に仮託しようとするなら、キホーテとは逆に、理不尽な裏切りに遭い、絶望して狂気に陥った悲劇的人物こそふさわしい。まさに、田舎貴族の青年カルデニオその人である。かくして、セルバンテスの人生の悲運は全きフィクションの形で、カルデニオに仮託されたと考えることができるのではないか。キホーテの頓珍漢な狂気に対して、カルデニオの狂気は悲劇的で、人々の涙を誘う体のものなのである。このような登場人物に対して読者は共感と同情を惜しまないに違いない……しかし、事はそううまく運ばなかったのである。

カルデニオの何が悪くて、作中存在感のある登場人物になれなかったのだろうか? いや、カルデニオは別に悪くない。ただ、真の狂人キホーテに釣り合う登場人物になるほどの内実が欠けていただけだ。端的に言うなら、狂気が足りなかった。彼が狂気に陥るのには十分な理由があり、それは理に叶っていたのであるが、誰もが知るように、狂気は理詰めでなるようなものではないのである。

狂気は、人生からの理屈に合わない跳躍であるはずだ。跳躍というと高みへの上昇みたいだから、言い直そう。狂気は大抵、人生の谷底への理不尽な落下である。もし理に叶った狂気などというものがあるとするなら、それは理に叶った解決がなされれば消失してしまう程度のものだ。カルデニオも場合がそうであったように。そして、カルデニオは狂気以外に突出した属性を持たず、狂気を喪失した後には並み以下の登場人物に成り下がるしかなかったのである。

こう考えてみると、「ドン・キホーテ」という小説、その主人公キホーテの並外れた特長が目に見えて来る。キホーテの狂気は、まさに現世の人生からの跳躍的な逸脱だった。騎士道小説狂いという理屈に合わない狂気は、現世の合理性によっては癒しようがない。司祭や床屋、鏡の騎士らが寄って集ったところで、彼らが現世の仕組みの中で動いている限り、キホーテの狂気は動かせないのだ。結局、勝利したのは狂気の側だったと言いたくなる。

前編のラスト、鳥籠のような移動牢獄に監禁され、見世物のような姿で故郷に帰るキホーテは真に惨めな有様であるが、狂気への有効な対抗手段を持たなかった凡庸な世間に対して、ついにキホーテの狂気が勝利を収めた逆説的な成功の象徴とも言える……これは強弁ではない。人は息苦しい現世からの逸脱や跳躍を求めるが、滅多にそれは叶うことがない。セルバンテスは何度も栄達の道を求めながら、すべて失敗した。オスマン・トルコの虜囚から解放された後、彼は祖国で二度も入牢の憂き目に遭っている。一方、キホーテは、サンチョとの遍歴の旅を通して凡庸な人生からの逸脱を見事に成し遂げたのだ。

現実の世界であり得ない「夢」を現実として生きようとするなら、世間から嘲笑われ、馬鹿にされるしかない。そんな恥ずかしい人生を、キホーテは迷わず生きてみせた。ただし、ここで大事なのは、セルバンテスが、彼の狂った旅の有様を情け容赦のない筆致で描き出してみせたことである。夢を追い求める者を応援する、なんて甘っちょろい話は一つもない。

当然、キホーテの旅は失敗の連続になるわけだが、キホーテは自らの失敗を失敗として認識しない。結果、彼の騎士道の夢は挫折することがないのである。無敵なのだ。「ドン・キホーテ」は、息もつかせないストーリー展開や読者の感情移入を誘う登場人物といった世間が求める小説のありようからは遠い。しかし、この度しがたい狂気という強靱無比の夢には、半端に出来のいいストーリーや登場人物では太刀打ちできない。キホーテには無類の突進力がある。この辺りに、「ドン・キホーテ」の奥深い魅力の秘密が隠されているのではなかろうか。

思わず知らず「ドン・キホーテはなぜ面白いのか?」という主題の答えらしきものに接近している。凡庸な結論に見えるかもしれないが、だからこそ正しいとも思える(ただし、これは夢を追い求める者の物語ではなく、夢を見続ける者が徹底的に虚仮にされる小説である)。しかし、結論づけるのはまだ早い気がする。そもそも、カルデニオの小説における重要な役割についてまだ書いていない。先に進もう。