「仕事と日」と風土記、アンダルシアの青い空  #7

古代ギリシアの「教訓叙事詩」、ヘーシオドスの「仕事と日」には、一般の人の生活をリアルに記述した部分がある(松平千秋訳。岩波文庫。「/」は改行を示す)。

「またこの時節(1~2月)には、肌を守らなければならぬが、これからもわしがすすめるように、/柔らかい上着(クライナ)と足まで届く肌衣を身に着けよ。/縦糸を少な目に、横糸を多くして織るのだ。/これを着て肌を蔽えば、体じゅうの毛も静かに動かず、逆立って鳥肌になることもない。/足には、屠殺した牛の皮の、内側をフェルトで厚く裏打ちしたサンダルを/足にきっちりと合わせて穿け。/寒気の季節が到来したならば、一歳の子山羊の皮を、/牛の腱で縫いあわせよ、背にかかる/雨を防ぐためにこれを羽織るのじゃ、また頭には、/耳を濡らさぬように、フェルトで仕上げた帽子を被れ。」

時代の違いを(再び)無視して御託を少し。この執拗で細密な記述と、風土記の軽やかな文章とを比較すると、西洋の油絵の風俗画と絵巻や浮世絵との違いのようだ。リアルだがねっとりvsやや類型的だが洒脱。

だが、「仕事と日」と風土記との間には、同じように「普通の人」の生活を扱いながら、根本的な違いがある。前者には、ゼウスを頂点とする古代ギリシアの神々という「天」が覆い被さっているのだ。それは、無頼の弟に教訓を与える「わし」なる人物に象徴される。「わし」は弟=人間を、兄でありながら神の位置に立ち、見下ろしつつ語っている。

風土記の報告者は、少なくとも文章を書く間、書かれる人々と同じ平面に立つ。神々や統治者と同化して人々を見下ろしてはいない。もちろん、これは、書く人と書かれる人との間に、地位や身分の差が消失していることを意味しない。それでも、私が引いた風土記の文章に、「仕事と日」を覆っているような上下の関係を規定する「天」は見つからない。底抜けの夏の青空が広がっているだけだ。

そんなことを考えていたら、出し抜けにスペイン、アンダルシアの青空が思い浮かんだ。残念ながら行ったことはないが、「ドン・キホーテ」を読み通せば、あの青空はお馴染みみたいなものだ。キホーテとサンチョ主従の頭上にも天蓋はない。騎士道物語を成り立たせていた世界は過去のものとなり、英雄たちの物語が刺繍された天を覆う蓋は消えて、空は素通しになっている。

ただ主人であるキホーテの目には、依然として天蓋が見えているのだ。天蓋に閉ざされた世界が消えたのはそんなに昔のことではない。キホーテの騎士道物語狂いを嗤う人々もその中身を熟知していたりする。物語を面白がるのは構わないが、信じてはいけないし、まして物語を生きることは御法度、そういう新世界を主従は旅している。

……先走りすぎだ。天蓋がないというだけで、風土記とドン・キホーテの共通点をあげつらおうというつもりらしい。おちけつ。まだ風土記について語りたいことがある。古事記と日本書紀の「感想」も。