古代の書物を読む楽しみ 常陸国風土記(3)  #6

前回と同じような、人々が集って楽しむ様を描いた例をもう一つ挙げよう。久慈郡(くじのこほり)の一節である。

「浄き泉は淵をして、しもに是れそそながる。青葉はおのづからひかりかくす。きぬがさひるがえし、白砂しらすなごは亦、波をもてあそむしろく。夏の月の熱き日に、遠き里近きさとより、熱きを避け涼しきを追ひて、膝をちかづけ手を携へて、筑波の雅曲みやひとぶりを唱ひ、久慈の味酒うまさけを飲む。是れ、人間ひとのよの遊びにあれども、ひたぶる塵中よのなかわづらひを忘る。」

前にあげた二つの文に比してやや説明的だが、これも「夏の月の熱き日」の実感を伝えて間然とするところがない。真夏の光のまぶしさ、それ故に濃くなる陰影、酷暑をも楽しみに変えて遊ぶ人々。個人的には三菱の創始者岩崎彌太郎の日記中、夏の一日を親族や社員と共に川原で楽しんだ場面を想起する。彌太郎の評伝を書くために彼の日記を熟読したからだが、まあ、そんな人間は世界中で私以外ほぼいないとしても、盛夏の楽しみが古代も明治時代も同じようなものだと分かるのは、やはり面白いことだ。私も子供時代にこんな楽しい時間を過ごしたことがある。今の子供も少し幸運なら可能だろう。

ここ数年、古代に書かれた書物を読むことが多い。ヘロドトス「歴史」に始まって、クセノポン「アナバシス」、アッリアノス「アレクサンドロス大王東征記」、ホメロス「イリアス」「オデュッセイア」、なぜか「老子」「荘子」も少し囓り、それに「風土記」と並行して「古事記」「日本書紀」など。現代の本も読もうとはするのだけれど、つい古い方に手が伸びてしまう。この状態がいつまで続くかは不明なれど、今はうんと遠く離れた時代に直接肌で触れる感触が楽しくて仕方ない。

どんなにリアルに仕立てられようと、絵や映像は所詮再現だ。文章で書かれたものは当時のままの「実物」である。数千年前であろうと、作者の書いた文章をそのまま読めるのだから。そこには大きな魅力がある。もちろん訓読や翻訳の恩恵が私には不可欠だが、それは外国文学だって同じこと。ちなみに、#4倭武の項の「 」内に引用した文章の「原文」は「流泉浄澄充有好愛時停乗輿翫水洗手」である。

古代の書物に親しむ中で、風土記は例外的書物であるかのように思えて来た。読んでいると、古代の空を覆っていた重々しい天蓋が思い切りよく取り外されたような爽快感がある。他の古代の書物に登場するのは神々や英雄、王族や貴族、武人がほとんどで、そのことが時に重苦しい気分を引き起こす。彼らの存在感は、楽しみのための読書においては、時に重たすぎるように感じられてしまうのだ。

一方、風土記では、神でも英雄でも王族や貴族でも武人でも何でもない普通の人たちも登場し、彼らの生きる姿が、神話や説話の一部としてではなく、それ自体として描かれることがある。そういう時、風通しが良く気持ちよいと感じる。

そのような書物は大変に珍しい……少なくとも私の読んだ範囲においては。たとえば古事記にはそうした記述は皆無だ。一方、意外に思われるかもしれないが、日本書紀の中では「平民」の姿が一瞬だが垣間見えることがある。この件については後に述べる。