本を読んで面白いと感じる理由について考えてみたくなった。きっかけは「ドン・キホーテ」だ。楽しく読んでいるのに、自分がなにを面白がっているのか分からず、釈然としないまま読了した。こんな経験は過去にない。
面白がって読んでいる最中、面白い理由について普通は考えたりしない。しかし、「ドン・キホーテ」の場合は、確かにこの小説は面白いけれど、何が面白いのかよく分からない、なぜなんだろう? とずっと自分に問いかけていた気がする。
それは私にとって「深刻な」と表現してもいほどの戸惑いだった。読み終えたのはずいぶん前のことだが、長い間、その不可思議な感覚を鮮明に思い出すことができた。この文章は、その戸惑いと疑問を究明するために書き始められた。もやもやと頭の中でわだかまっている問題について、書くことで解決できる場合がある……その可能性に期待をかけているのだ。
心づもりでは「ドン・キホーテは、なぜ面白いのか?」というタイトルで文章を書くはずだった。しかし、なかなか書き始められない。考察のための準備が整わなかったからだが、材料を集める過程で、この考察は本体の「ドン・キホーテ」になかなか到達しないことが分かって来た。それは、ぼんやりした予想からやがて確信へと変わり、結局まだほとんど書き始めてもいない段階でタイトルを変えることに決めた。
しかし、考察の目標が「ドン・キホーテ」であることは変わらない。このセルバンテスの代表作は、世界文学の最高峰の一つと目される一方で、通して読むのがなかなか困難であることもよく知られている。私が「ドン・キホーテ」の通読に「成功」したのはの新潮社版(2005年刊)によってだが、その機会には、面白くはあっても古典を読むという義務を果たしている感覚から抜け出せなかった。次に読んだ牛島信明訳岩波文庫版では、ただただ面白がりながら読んだ……と書くと、やはり少し嘘になる。
代わりに、こんな風に表現しよう――楽しく義務を果たすことができて(古典は何度も読むべし! という義務)、いい気分だった。それは紛れもない事実である。しかし、なぜ面白いのか分からない。どうにかして、この疑問を解いてみたいという願いも同時に生じたのだった。