かわいそうな風土記?  #3

三浦佑之『風土記の世界』 (岩波新書、 2016年)に、こんなことが書かれている。風土記は「貴重な資料でありながら、読むためのテキストも注釈書も解説書・入門書の類もほんとうに少ない。2013年は同書の編纂命令が出て1300年の節目だったが、ほとんど目立たないままに過ぎた」源氏物語千年という年の、映画やらアニメやらまで登場してのお祭り騒ぎと比べると、まさに「雲泥の差」ではないか……。

私が風土記を読んだのは、角川ソフィア文庫版『風土記』上下二巻が書店の棚に並んでいるのをたまたま見て気にかかったのがきっかけだ。パラパラと中身をのぞき見し、興味を惹かれて購入した。で、読んで大満足した。ありふれた、そして幸福な本との出会いである。このようなことは数え切れないほどあったし、この先もそうあってほしい。

それでも、三浦氏が風土記の不人気ぶりを新書の「はしがき」に記しているのを読んで、驚きはしなかった。風土記が、有名な割に触れる人が少ないことに、薄々勘づいていたからだ。古事記の現代語訳をヒットさせた三浦氏は、その後古事記関連の注文ばかり来る中、岩波新書の編集者から風土記をと依頼があった時に「欣喜雀躍した」と書いている。風土記が軽視されている状況を残念に思っていたのだろう。

しかし、そんな三浦氏の書いた『風土記の世界』は、もちろん風土記の案内・入門書に違いないのだが、読んでいる内、風土記は三浦氏にとって本命ではないのだなあ、と気づかされてしまうのである。同書中、「記紀」について論じる氏の熱心さに比すると、風土記自体の魅力を語る時には、体温が下がっていると感じられるのだ。本の主題だからと渋々と義務を果たしている気配すらないわけではない(個人の感想です)。結局、古事記・日本書紀をめぐる通説を氏が「打倒」したいがため、風土記を「利用」しているという印象さえ覚えたのだった(あくまで個人の感想です)。実際、230ページ余という本書の中で、引用など古事記にまつわる記述がかなり多くの割合を占める。

三浦氏を批判したいのではない。風土記に同情しているのだ。『風土記の世界』では、古事記研究のスピンアウトとしてではあるものの、いつも脇役の風土記が前面が押し出されたはずだった。なのに、本筋での主役である古事記が登場するたび、注目を全部そっちに持って行かれてしまうという……。

仕方ないことだと思う。神話として、物語として、歴史読み物として、古事記の魅力はやはり殊更に大きい。古事記の著名なエピソードが、そのままの形で一つでも風土記に登場していたなら、その一節は風土記の中で突出した魅力のある部分として語られることになったはずだ。神話・物語としての面白さに関して、風土記は古事記とは比較することができない。もう一つの古代史の大立て者日本書紀も、現代ではしばしば古事記の敵役扱いだが、準主役であって決して脇役ではない。

風土記は古代日本の神話や物語の世界と深く繋がっている。が、記紀のような統一性を持たず、個々のエピソードは地域、風土の中で孤独に存在している。神話や物語としては魅力に欠けるように見えてしまう理由の一つだろう。おまけに歴史書ではないので、歴史好きの人の興味を引きつけ難い。人気薄なのは当然のようでもある。だが、私は記紀とは違う魅力を大いに楽しんだ。古代史にも上代文学にも丸きりの素人である私は、風土記のどこに魅力を感じたのだろうか?