播磨国風土記の地名起源説話  #9

フォーマットは違うものの、形式的なまとまり具合で「播磨国風土記」は「出雲国風土記」に劣らない。播磨編の定式は、こほりや山や川のそれぞれに地名の由来が記され、里においては農地に九段階のランク付けがされるというものである。

地名起源には興味深いものもあるが、たいてい「寒い」駄洒落の類いで――賀野かやの里は応神天応がここに御殿を造って蚊屋を張ったから――やがて辟易することになる。しかも播磨編は結構長いのに(角川ソフィア文庫版で150ページ超)、駄洒落地名起源説が最後まで飽かず繰り返されるのだ。

古代の人々の生活に直接触れるような生々しさに欠ける点も、出雲編と同様である。活躍する「登場人物」は殆どが神々や天皇を筆頭とする貴人である。なので、記紀のような神話と歴史の融合体から、時間軸を抜いてフラットに仕立てた(かつ、うんと素朴にした)ものを読んでいるような感触を覚える。

では、播磨編に古代の人々の生きる有様が全く見えないのかと言うと、そうでもない。神々や貴人の仕業と記されたことに、当時の「普通」の人々の姿が写されているからだ。記紀においても活躍するのは神や貴人ばかりだが、そうした記述の中から「庶民」の生活を透かし見ることが可能なようなものだ。まして、「風土記」においておや。そういう一例を見てみよう。

賀眉かみの里、荒田の村にいま道主日女命みちぬしひめのみことが、父親のいない子を産んだ。諸々の神を集めて、んでつくった酒をその子に注がせたところ、天日一命あまのまひとつのみことに向けて奉ったので、その子の父と分かった。

父親が不明の子が父を名指すというのも「定型」だが、当時の男女関係のありようがユーモラスに伝わって来るところが楽しい。道主日女命は女神なのにそんなにも男関係が激しかったのか、天日一命は父親と名指された後どうしたのか、神様たちがこんな風だったとすると、庶民の性生活はさらに大変なことになっていたのか、などと勝手に想像させてくれる。

播磨国風土記の地名起源説話で、意外な発見があった。手刈丘という名の起源の一つとして、韓人からひとが当地に来た時、彼らは鎌を用いることを知らず、ただ手でもって稲を刈っていたから、と記されている。これも駄洒落だ。渡来人、「渡来神」の話は記紀はもちろん、風土記にも数多い。この説話は、播磨の人々が、渡来の「韓人」を「遅れた人々」のように見ていた可能性を示している。

私は戦後教育を受け、「進歩的」な新聞・雑誌ジャーナリズムの影響下で育った(朝日新聞、朝日ジャーナル……)ので、古代の日本人は朝鮮や中国の優れた文化を一方的に受け取る側だったという固定観念を植え付けられていた。稲作も朝鮮半島から渡来したと教えられていたために、手刈丘の地名起源説話を読んで驚いたのだ。

川が上流から下流に流れるように、「良いもの」はみな先進的な朝鮮半島から遅れた日本へ伝わった――それが戦後日本の古代史の「常識」だった。しかし、たとえば稲作が朝鮮半島から日本列島に伝播したとする論は、もはや定説とは言えない。とはいえ、こうした変化は、まるで秘め事であるかのように現在でも滅多に語られることがない。古典を、解説書や語り直しの抜粋でない「原典」で読む面白さは、こんな発見ができるところにもある。