残酷さとハッピーエンド  #10

豊後・肥前の九州二カ国の「風土記」は短く、双方とも、その主たる内容は大和王朝による九州の辺土征服とそれに関連する神話である。物語としての面白さを持つ一方、征服した側からの一方的な記述に偏っているため、狭苦しく、息苦しい。#7に合わせて言えば、ここでは風土は神々や天皇を刺繍した天蓋で覆われているのだ。

「豊後国風土記」中、海石榴市つばきち血田ちだの地名の起源は、こうである。景行天皇が群臣に命じて土蜘蛛を襲わせる。勇猛な兵卒は海石榴の木を武器に変造して「山を穿うがち、草をなびけ」、土蜘蛛をことごとく殺伐したので、踝まで血に没した。海石榴の木の武器を作った所を海石榴市、血が流れた所を血田という。

上記中、「踝まで血に没する」というのは、他の征服神話にも登場する定型表現である。足裏では生ぬるいし、膝では誇張に過ぎるというので選ばれ、好まれたのだろうか。上記は私が抜粋したものだが、全文をあげたとしても、そこに悲嘆やら同情やら悔恨やらといった感情は一切表現されていない。

このドライさこそが神話だし、感傷と無縁であることは魅力でもある。しかし、私たちは土蜘蛛、蝦夷、熊襲、隼人といった被征服者を悪とみなす世界観から百八十度転換した場所にいる。まつろわぬ者をつみなすことは正しいという前提で語られると、落ち着かない気分になる。風土記には、記紀と同様、この種の記述に事欠かない。

そして、「踝を没する血」という毒々しい表現や、「血田」という「悪趣味」な命名は、そのグロテスクさによって、私たちが古代の書物に書かれたことに対して抱く違和感がどこから生じるのか、その輪郭を明確にする。被征服者への呵責ない残酷さは、かつて平和、非暴力を絶対善として教育された私のような人間には(今は、非武装中立といった考え方を空想的平和主義として否定的に見ているが、それでも)、承服し難いのだ。

風土記の擁護(?)の掉尾として、淡路国のお気に入りの逸文を紹介したい。これとほぼ同じ話が日本書紀中の応神記にあり、風土記本文としては参考程度のものらしいが、こちらが簡潔で楽しい。応神天皇が淡路島に遊猟みかりされた時のこと。

「海の上に大なる鹿浮び来けり。則ち人なりき。天皇、左右もとこひとを召してみことのりして問わせたまふに、答えてまをししく、「は是、日向国ひむかのくに諸県君牛もろがたのきみうしなり。角ある鹿の皮を着たり。年老いて、仕ふること与はずと雖も、尚天恩みうつくしびを忘るることなし。仍りて我がむすめ、髪長姫をたてまつらむ」とまをしき。仍りて御舟をがしめたまひき。之に因りて、此の湊を鹿子かこの湊と曰ふ。」

日本書紀から補うと、君牛は朝廷に仕えていたが年老いて故郷日向国に引退したものの、娘を天皇に献じるために戻って来ようとしていたのである。君牛は一人ではなく、十人余りの連れがあり、その中には髪長姫もいた(姫のような重要な人物がいなければ、その舟の着いた港をわざわざ「鹿子の湊」と命名することはなかったはず)。

宮崎県出身者の一人として、私はこの話を信じることができる。――君牛は故郷に戻り、娘が宮中でも評判になりそうな程の美女になっていることを発見する。これは天皇に献ぜねば、と思ったのだが、(私の想像では)陸路では美人の娘が土蜘蛛の類に害されるかもしれない。ならば、と黒潮の日向灘に泳ぎ出したのだ。

ドボン! 愚直な宮崎人ならきっとこうする、と宮崎県出身の私は了解した。鹿皮を着れば超長距離の遠泳も何とかなるのだ……その「秘法」は現代人の知るところではないけれど、できるものはできる。髪長姫は泳ぎ疲れ、不機嫌になったかもしれないが。それでも激流の豊予海峡を越え、瀬戸内海をはるばる進んで行くと、天皇に出会うという僥倖に恵まれる。素晴らしいハッピーエンド!