日別アーカイブ: 2018年10月5日

越えられない「歴史の壁」を越える  #11

私は前回「愚直な宮崎人ならきっとこうする」と書いたが、これは愚直で、かつ宮崎県人である場合には、という意味である。宮崎県人がみな愚直なわけではない。とんでもない! ただ愚直な人がやや多いことは、愚直な宮崎県出身者の一人として認めたい。

私は、四人の祖父母に一人も宮崎の生まれ、育ちがいないので純粋さに欠ける面があり、そのせいなのか疑り深さという欠点を抱えているが、同時に他愛もなくだまされて、こんな嘘を信じた人は私が初めてだと驚かれたりするような人間でもある。私が君牛遠征団の一員だとすると、その気になってドボンと海に入った後に、鹿皮を着ても泳げない者はやはり泳げないのでは、と疑心暗鬼に陥り、溺れそうになる気がする。お前は陸に戻れ、と君牛に諭される情景が目に浮かぶ。

私はさっきから何を書いているのか? 宮崎の県民性を云々したいのではない。古代の日向国ひむかのくにの人を今の宮崎県人に直結して話を進めるのが愉快で、その楽しみを前回だけで終わらせたくなかったのである。歴史には、こういう「ワープ」する楽しみがある。

その一方、楽しみは楽しみとして、歴史に事実、リアリティを求めるなら、安易な同一化を避ける必要がある。諸県君牛(もろがたのきみうし)の時代の日向国の人と現代の宮崎県人との間には、本当は超えられないほど高い壁があり、両者を隔てている。で、その断絶をないものとして無理にも同一性を構築するのが「ワープ」の楽しさだ。

歴史の事実やリアリティとは難しい問題だが、私のような歴史の素人は、その追究を学者に任せていれば大抵は用がすむ。しかし、残念なことに、歴史は客観的な事実という一点のみに立脚して語られることは滅多になく、イデオロギーや国家観といったものにいつも揺り動かされている。だから、歴史を知るためには、できる限り「原典」に近づくことが望ましいようだ。もちろん、そこに客観的な真実があるからではなく、自分の目で本文を確かめた上で判断できるからだ。学者による真摯な研究は、こうした判断の際にこそ役立つ。

土蜘蛛を滅ぼしたとして、誇らしげに書かれる「踝をひたすす血」の一行に私(たち)はたじろぐ。そこには、強い歴史のリアリティーがある。たじろぎは、壁の向こう側のぬるぬると不気味なものに直接手で触れたと感じたからこそ生じたのだ。しかし、同時に、たじろぎは「こちら側」の歴史感覚を照射してもいる。夷狄の生命の軽視を罪とみる一視同仁の平和的ヒューマニズムを、私たちは議論の余地のない前提としていることを自覚させられるのだ。こうしたヒューマニズムは、たとえば「聖戦」を信じる人たちには通用しない。

風土記を読み始めた大きな理由の一つは、実は歯ごたえのある読書をしたかったからだった。歯ごたえがあるとは、そう簡単には読めないことと考えていたのだが、それだけではなかった、と今になって気づく。自分が生きる現在を、半分眠っているかのような日常的な認識や感覚を、今一度目を覚まして確認したかったのだ。風土記はそういう意味でも楽しかった。

……少し歴史に深入りし過ぎたようだ。私が風土記を面白いと思う理由には、どんな本を好むのかという根本的な性向がかかわっている。風土記は私の性向とうまく合致していた。私の趣味は世間的に全く例外的とまでは言えないにしても(たぶん)、風土記が古事記よりも性に合うというくらいには「変」なのである。