ミステリー小説という「鬼門」  #13

どう頑張っても読めない、あるいは読んでも面白くないという書物は、恐らく誰にでもある。専門家以外には難解過ぎるというのではなく、一定数の、あるいは多数の読者がいるのに、自分には読めない、また読もうとしても面白くないというような類だ。私の場合、ミステリー小説がそれに当たる。一部ではなくミステリー小説が殆ど全部だめ。相当の努力をしても読むのは難しい。

努力をしようという時点で、すでに向いていないと分かる。一般にミステリーはエンタテインメントの分野に含まれるようだから(というか、今やエンタテインメント小説の主流と言える存在なのではないか……部外者なので曖昧な書き方になる)。私はミステリーを楽しむ能力に欠けている。恐らく先天的なもので、「事件記者」に事件はいらない、と思ってしまった幼い頃から変わっていない。

かつて、欧米の文学作品を児童向けに翻訳、リライトしたものが数多く出版されていた(今も?)。私の両親は、姉たちや私のために児童書を買い与えてくれた。そんな中に、怪盗ルパンやシャーロック・ホームズもあったと記憶しているが、中身は殆ど何も覚えていない。たぶん途中で読むのをやめたのだと思う。

一方、ヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズはお気に入りで、中でも「ドリトル先生の動物園」を偏愛し、何年にも渡って幾度となく読み返した。中学生くらいになると、ミステリー好きの人は大人向けの作品を手に取るようになるのだと思うが(私の姉の一人がそうだった)、私が向かった先はSFだった。当時一番気に入ったのは「月は地獄だ!」(ジョン・W・キャンベル)である。これも数え切れないくらい読み返した。「ドリトル先生の動物園」「月は地獄だ!」を読んだ時間、もっと多くの文学書に親しんでいれば少しはましな小説家になれたのではないか、というくらいには多くの時間を費やした。

その後、太宰治に始まって、井伏鱒二や谷崎純一郎を経由し、大江健三郎、安部公房などの私小説的でない純文学、アメリカ、フランス、ロシア等の外国文学への指向が強まり、ミステリーとはますます縁遠くなった。隣家の叔父とは別の叔父の影響で筒井康隆に初期から親しんでいてSFとの縁はしばらく続いたが、それもいつの間にかフェイドアウトした。

とはいえ、食わず嫌いだったわけではない。姉の本棚にあったのだと思うが、87分署やマルティン・ベックのシリーズなど外国の警察小説を愛好していた時期があり、松本清張なら、確か「砂の器」と「点と線」を最後まで読んだはずだ。面白い小説があると聞けば読みたくなるのは当然だし、まして「古典的名作」、「最高傑作」などと評判が高ければ尚更だ。そうして私は、アガサ・クリスティーやら「悲劇」シリーズやらブラウン神父シリーズ、国内の新旧のベストセラー作品のいくつかなどに手をつけ、その度に挫折した。結局、とことんミステリーに向いていないのだと思い知らされた。

19世紀に生まれ、20世紀に大きく成長して、今日、日本でも世界でもミステリー小説の分野には部厚い作家と作品の蓄積がある。現代において文学ジャンルとして最も大きな発展をした分野といっても過言ではなさそうだ。ミステリーがこのように発展した理由は、ストーリーという小説の最も美味な部分に焦点を当てて進化させたことにあるではないか、というのが(部外者にして素人の)私の見立てである。

読者に謎を提示し、それを解決していくというのは、小説におけるストーリーのエッセンスと言える。そしてストーリーは小説のアンコであり、多くの読者はアンコを食べたくて小説のページを繰るのだ。ストーリーを特別においしくする技術をミステリー作家が開発し、そうした小説を受け入れる基盤(文学的に、社会的に)が整って、現在のミステリーの隆盛がもたらされた。……どうも脱線している気がするのだが、次回もこの話が続きます。