魅力的な登場人物について エンマとアンナ  #16

ここまで書いて来て、気づいたことがある――改めてなのか、初めてなのか判断がつかないのだが――私は、読者として、主人公であれ他の主要人物や脇役であれ、惚れこんだり、ファンになったりしたことが殆どない。作者としては、登場人物を魅力的に造形しようと真剣に考えた覚えがない。精々、読者が登場人物に味方してくれるように、筋書きや設定に多少の工夫をしたことがあるくらいだ。

作中人物の魅力について、後書きやら解説やら書評やらでたくさん読んでいるはずだが、そこに共感がないので、右から左に抜けて記憶に残らなかった。性格や行動や「思想」についての分析なら、興味を抱いたことがあったと思う。魅力的な登場人物といって私がまず思い起こすのは、アンナ・カレーニナを筆頭にトルストイやドストエフスキーの作中人物なのだが、筆頭格のアンナですら、深い共感や愛着を感じてはいなかった。魅力的に書かれているなと思った、と表現するのが近いと思う。

これは(最近になって理解するようになったのだけれど)、私自身、他者に共感する能力が低いことが影響しているだろう。この欠点に関しては、思い当たることやら考えることやら山ほどあって、それらは「ドン・キホーテは、なぜ面白いのか」問題とも関連がある可能性が高いのだが、この個人的な属性については深入りしない。ともあれ、私は、一般的な小説の読者を惹き付けるのに不可欠の要素であるストーリーと登場人物の魅力の双方に縁の薄い作者であったようなのだ。つまりは、物語作者じゃなかったということだ。知らなかった。

カレーニン夫人は当たり前のように魅力的なヒロインと称えられる。一方、フローベールの主人公エンマ・ボヴァリーをヒロインと称するのはためらわれる。彼女は、物語の女性主人公からヒロインとしての要素の殆どを抜き取った上で、彼女の読書遍歴とは無縁の近代小説の主人公にされてしまったように見える(魅力がないわけではないが、それが却って仇になるような書き方をされるという悲劇)。しかも主人公として登場したのが「不朽の名作」だったために、満天下、永遠の恥をかかされることことになったのである。作者に「ボヴァリー夫人は私だ」と自白してもらい、恥と罪を引き受けてくれなくては気の毒というものだ。

先を急ぎたいという以外の思惑はないまま、魅力的な主人公としてアンナの名を出し、夫人つながりで安易にボヴァリー夫人を呼び出したために、「ドン・キホーテ」への危険な急接近が起こってしまった。この男女二人の主人公がある意味で似たもの同士であることは、よく知られている。どちらも読んだ本を真に受けたばかりに実人生を毀損することになった主人公だ。しかし、そこは私の論点ではない。

似たもの同士の二人には、物語の子孫としての小説には不可欠の「魅力的な登場人物」の逆をいく共通点があることに気づく。両者とも作者に恥をかかされ、ひどい目に遭わされているのだ。他方アンナは不倫で身を持ち崩しながらも、作者の思惑を裏切って魅力たっぷりの女性主人公となり、作者を返り討ちにしている(彼女の裏切りは、作者の栄光であると評価されている。作者はアンナがどんなに魅力的であるかを知らなかったらしい)。セルバンテスもフローベールも、そしてトルストイも、作中に読者にとって魅力的な人物を登場させることを重要とは考えていなかったようだ。

人物として素直に好ましいのはエンマやキホーテではなく、ゲス不倫貴族であるカレーニン夫人だ。しかし私は、近代小説の信奉者として、作者によって全てを奪い去られたかわいそうなマダム・ボヴァリーに跪拝する。アンナにはダンスを申し込もう(断られるだろうから、ダンスができないことは問題にならない、はず)。……また、話がずれている。それでも折角だから二人の女性だけでなく、憂い顔の騎士にも挨拶をしておきたい。だが、私は、彼に対しては、どんな態度で、どんな風に言葉をかけるべきなのか分からないのだ。で、こんな文章を書き続けている。