日本人になる寸前の人々を目撃する 日本書紀(1)  #19

#6に、古事記でなく日本書紀に「『平民』の姿が一瞬だが垣間見える」と書いた。記紀では、貴人ならざる人々は「百姓おおみたから」と呼ばれているらしい(多くは農民だろう)。しかし、書紀においても、「百姓」は殆ど姿を現すことがない。せいぜい彼らの煮炊きする煙が目撃されるくらいのものである。

では貴人ならざる者である「平民」が書紀に登場するのは、どのような時だろうか? そうした記述は、いずれも被征服民への言及においてなされる。平民は、古代日本の正史には、被征服民が不可視の「百姓」になる前に「目撃」された場合にのみ、その姿を記録として残されたようなのだ。

いくつかの例を、書紀から引く。最初は、有名な海幸彦・山幸彦の話(神代・下)である。兄海幸彦が弟山幸彦のいきほひ(海神に与えられた呪力)に降参した時のこと。

「兄はフンドシをして、赤土を手のひらに塗り額に塗り……『私はこの通り身を汚した。永久にあなたのための俳優わざおぎになろう』……足をあげて踏みならし……苦しそうな真似をした。始め潮がさして足を浸してきたときに、爪先立ちをした。膝についたときには、足をあげた。股についたときには走り回った。腰についたときには、腰をなで回した。脇に届いたときには手を胸におき、首に届いたときには、手を上げてひらひらさせた。それから今に至るまで、その子孫の隼人たちは、この所作をやめることがない」

海幸彦・山幸彦の話は、隼人と呼ばれる人々の起源神話になっているわけだが、私の目は、そのいでたちや身振りに惹きつけられる。細密かつユーモラスな表現によって、古代九州南部の人々の姿を「映像」として見ることができるのである。「蛮族」を見下げる視線が現代人には気になるが、時代の制約なので致し方ない。また「俳優」とは何なのか、その仕事、身分の成り立ちについても考えてみたくなる。

隼人は、征服された後、天皇のそばで警護する役割を担い、犬の鳴き声を出す「吠声(はいせい)」という儀礼を行った。中村明藏鹿児島国際大学院講師によれば、吠声は次第に衰微し、「室町時代には……『延喜式』に 記述されているような隼人の吠声は廃絶していたようである」http://www5.synapse.ne.jp/shinkodo/hayatoibun/hayatoibun-4.html

それでも、仁科邦男『犬たちの明治維新』(草思社文庫)によれば、明治天皇東京御幸の翌年、1869年にイギリスのエジンバラ公が江戸城を訪れた際、吠声が復活した。御所に勤める神職が犬のように鳴いたのだそうだ。延喜式の蕃客ばんかく(外国の賓客)を迎える際の儀礼にならったのだと言う。外国の王族が御所を訪うことは、奈良時代以来絶えてなかったので、古代王朝以来の礼式の記録である延喜式を引っ張り出して来るしかなかったのかもしれない。まさに王政復古。

先年、春日大社の若宮御祭を扱ったNHKの番組の中で、ご神体を守る神官が真っ暗な中、オー、オーと声を上げて歩く「警蹕けいひつ」の場面が放送された。吠声のことを知ると、「警蹕」を吠声に重ね合わせたくなる(中村講師もそう書いている)。本当に隼人の吠声が起源であり、それが現代にまでつながっているとしたら、とても面白い。

話を元に戻そう。「書紀」からの別の文章をひく。熊襲反乱を鎮圧に九州に赴いた景行天皇に対する、現地の女性首長である神夏磯姫かむなつそひめの発言の一部である。悪い賊のうち「その四を土折猪折つちおりいおりといいます。緑野の川上に隠れており、山川の険しいのをたよりとして、人民を掠めとっています」

「土折猪折」とは「土の上にじかに座る人たち」という意味だそうだ。岩穴なのか縦穴住居なのかわからないが、敷物なしに地面に座る部族があったこと、彼らは(「熊襲」視される部族中でも)野卑だとみなされていたことが、神夏磯姫の発言から察せられる。

同じく景行天皇の条。東国に派遣された武内宿禰たけうちのすくねが天皇に復命する。「東国のいなかの中に、日高見国(北上川流域か?)があります。その国の人は男も女も、髪をつちのような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷えみしといいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」

攻略ではなく友好関係を結んでくれれば良かったのだが、これもまた現代につながる「日本人」形成の過程である。引用に描かれたような外見上の特徴を持つ「蝦夷」は、やがて「百姓」に成りかわる。東国に侵入して来た、より古い時代からの「日本人」に取って替わられたこともあっただろう。