前章冒頭で、旧約聖書について「記録」と「 」つきで書いた。旧約の記述は正確な記録ではないが、かといって純粋なフィクションでもなく、事実を元に脚色されたものだろうと考えたからである――海が真っ二つに割れたことはなくても、大きな潮の満ち引きはあったのだろう、という感じ。旧約を繙く人は、専門・関連の研究者でない限り、大抵そんな程度の認識のはずだ。事実に基づくと思っていたからこそ、私は読んでいて気持ち悪くなったのだ。だが、何か腑に落ちない気がして、いくつか旧約関係の本にあたってみた。
山我哲雄『一神教の起源』などによれば、数十万人のイスラエル人が一斉にエジプトを脱出し、カナン(後のパレスティナ)へ集団で移動・定住したという旧約の記述の根拠となる文書記録や考古学上の痕跡はないのだそうだ。ユダヤ教、ユダヤ民族は、実際には、主にパレスティナの地で、長い時間を経て形成されていったらしい。
その後、ユダヤ国家の滅亡、バビロン捕囚という厳しい状況の中で、ヤハウェ以外の神を否認する唯一神教という宗教的アイデンティティーが確立していく。旧約聖書はその礎となる物語であり、律法であり、また経典、神話、記録でもある文書集として編まれた(出エジプトが措定される時期と、旧約が編まれた時代とは、数百年の時で隔てられている)。それは、民族離散という困難な状況下において、ユダヤ人が「同一民族」であり続ける強い武器となった。
となると、「民数記」や「ヨシュア記」の虐殺の記述は歴史的事実ではないと主張することが可能になる。一方、そう主張した場合、ユダヤの民を率いた最大の預言者モーセを否定することにつながる。聖書を教典とする人々は、旧約は事実を元にした記述であるという一線を守らなくてはならないはずだ。このジレンマをどう解決するか?
答えは、おしなべて虐殺の記述については素通りし、沈黙することのようだ。旧約を全文読もうとする人は少ない。目にする人の多いであろう一般向けの解説書では、「民数記」や「ヨシュア記」はごく簡単にすませる。有名なエリコの戦い、中でも敵の城壁が崩れる奇跡に触れるだけ、というのが常道だ(エリコでも戦いの後は他と同様の有様だったのだが)。こうすれば、虐殺を命ずるヤハウェの苛烈さ、聖書の残酷な面は人々に知られないですむ。私も知らなかった。信者の間ではどうなのか、知りたい気もする。
モーセやヨシュアも間違いを犯した、と書く本は一冊も見つけられなかった。それは当然だ。日本で旧約について解説するのは殆どがキリスト教徒かその関係者であり、主の命令でやったことを過ちとできるはずがない。一方で、虐殺された側がひどく堕落していたので当然、仕方なかったと正当化する説は、一般に読まれる本では滅多になさそうだが、ネット上では見つかった。そうした主張はISを連想させてしまう。
山形孝夫『図説 聖書物語 旧約篇』では、ヨシュアの戦いを「焦土戦術」とまとめている。うまい用語の選択だ。嘘でもなく、素通りでもないように見える。しかし、この本の読者と想定される「旧約ビギナー」には戦術の詳細が分からず、旧約本文のすさまじさは想像もできないだろう。
加藤隆『集中講義 旧約聖書』では「『カナン』には、先住民がいました。先住民のすべてが最後まで抵抗したのではなく、侵入者グループと仲間になる者たちもいました」と書かれている。虐殺の記述にギリギリまで接近しながら、見事に素通りしてしまう。ちなみに、この本は「別冊 NHK 100分で名著」シリーズの一冊である。
NHKは過日、旧ソ連のプロパガンダ人民裁判の音声記録を持ち出し、そこでなされたシベリア抑留者による「旧日本軍の罪業」をめぐる証言を事実として放送したようだ。NHKの大好きな日本国憲法の第三十八条には「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」とあるのだが。つまり、旧悪については疑わしい面があっても容赦なく糾弾するのがNHKの方針のようだ。ならば、旧約についても「忖度」しないよう『集中講義 旧約聖書』の著者に促した方が良かったのではないか?
橋爪大三郎『教養としての聖書』は虐殺の記述に触れている。しかし、「古代の戦争はこうしたもの」「アメリカそれ自体が約束の地……でっかいテーマパークだとも言える」とも述べており、旧約の残酷な面――それは「インディアン」迫害の正当化に役立った――を希釈しようとする意図があるのは明らかだ。橋爪は虐殺の記述をいくつか引用しているものの、中で最もショッキングな、前回引用したモーセの怒りに発する命令は欠けている。私が目を通した限り、この部分を引用した本は一冊もなかった。
キリスト教徒ではない(と思われる)色川武大『私の旧約聖書』は残虐な記述に目をつぶらない。作家の目は素通りを許さなかったのだろう。しかし、色川は引用ではなく自分の文章としてまとめており、本来の恐ろしさは消えている。「山地の部族と戦って、男子を殺し、女子供を捕えて帰って来ると、なぜ皆殺しにしない、とイェホバ氏に怒られたくらいですから……」前回引用したモーセの命令の言葉と比較してほしい。その情け容赦のない具体性。簡潔な文章が惹起する恐怖。見も知らぬ過去からぐいっと手が伸びて来て摑まれ、聖典の暗闇の中に引きずり込まれる心地がする。