日別アーカイブ: 2018年12月25日

過去からの衝撃  #27

独自の宗教や神話が別の信仰や教義に代替されて失われた事例は、歴史上少なくない。キリスト教と聖書、イスラム教とコーランが土着の信仰、教義に取って代わるようなことだ。日本書紀は、もし日本が他民族による支配を受けていれば、たとえ抹殺されなかったとしても、国の根幹を明らかにする「民族」の神話、歴史書としては意味を失い、古事記に比して面白みに欠ける伝説集といった扱いになっていたかもしれない。いや、事実、第二次大戦後、GHQの統制下、そのような位置に近づけられたのだ。

しかし、米軍の支配は、支配される側の息の根を完全に止めるほどの「圧殺」ではなかったために、何とか息をつぐことができた。そして、占領が終わって何十年か経っても同じような状況は続いている。いつか歴史教科書において聖徳太子の存在が公式に否定される日が来れば、その時には書紀の「民族の神話」としての命脈が絶たれるかもしれない。……こんな風に考えていたら、ヨーロッパを始めとする世界のキリスト教徒が、旧約聖書の起源神話を「自分たちのもの」として受け入れているのが、何とも奇妙な光景のように思えて来た。それは古代イスラエル人の「神話」なのだから。

しかし、ここで改めて言っておきたい。書かれて残されたからこそ、約束の地で実際に何が起こっていたか、また大和王朝の成立史がどのようなものであったかを(少なくとも、どのように記述されたか、もしくは考えられていたか、あるいは考えたいと考えていたかを)知ることができるのだ、と。ほとんど痕跡を残さずに消された「民族」は数多い。

書かれ、残されていないが故に隠蔽されている虐殺は、数え切れないほど存在する。記録されていないから、それは文字通り「数え切れない」のだ。記紀、「インディオスの壊滅に関する簡潔な報告」、旧約聖書はむしろ例外なのかもしれない。まあ、中国の歴史という激しく入れ替わる陰映の無限大の集積のようなものもあるけれど。

千年、二千年の時を超え、「書かれたもの」が現実の政治を動かしている、という事実は驚嘆に価する。サルが言葉を持ってヒトになったとして、ヒトが文字で記録を残せるようになったこともまた、ヒトを別の段階へと変化させる何事かであったのだろう。いいことばかりじゃないので、「進化」という言葉は使いにくいが。

言葉が文字になり、文章が綴られて歴史が作り出される。その影響は時に衝撃的で、まばゆい光と深々とした影を未来に向かって投げかける。過去の出来事を、いま起きたかのように感じさせる書物が存在するのだ。それは凄いことだ(恐ろしいことでもある)。

ここで突然、「ドン・キホーテ」に立ち戻る。この小説は、セルバンテスの時代の出来事をついさっき起きたかのように伝えて来ることがある。古い本なら何でも、このようなことが起きるわけではない。私が「ドン・キホーテ」を面白いと思う理由の一つは、過去が生々しく生起する場所に立ち会わせてくれることだ。

誤解のないように付け加えておく。「ドン・キホーテ」が過去の記録として貴重だと言っているのではない。記録として貴重なのは事実だが(学者の証言もある)、そんなことのためにセルバンテスは「ドン・キホーテ」を書いたわけではなかった。それは時に優れた歴史書に比肩するほど鮮やかに、過去を甦らせる力を持つ、ということだ。

だいぶ前のことだが、とある文芸批評家(自称?)が、今の小説家の殆どはクズだから、将来の研究者のために現代風俗の記録となるものでも書いておけばいい、と語っていた。困った。私はクズだが、記録のために小説を書くはできそうにない。セルバンテスのような優れた小説家と、そこだけは同じなのである。