カルデニオとキホーテ、そしてセルバンテス  #30

カルデニオは非常にインパクトの強い登場の仕方をしつつも、特にルシンダと結ばれた後には、その他大勢の一人に甘んじることになる。登場人物たちが様々に言葉を発する場面で、彼には一言のセリフも与えられなかったり。セルバンテスは、まさかカルデニオという登場人物を忘れたわけではないだろうが、使えないなあ、と思っていた可能性はある。

その登場時、カルデニオは不気味さ、暴力性で目立っただけではない。実際に読者の前に現れる前から、カルデニオの放棄した所有物やロバの死体などの痕跡をキホーテ主従が発見する形で、その存在が仄めかされるという、実に丁寧な扱いを受けていたのだった。カルデニオは、もっと重要な登場人物になるはずだったと推測する根拠の一つである。

カルデニオは、作者の、どのような期待を受けつつ物語に登場したのだろうか? 私見では、狂気に陥るべくもっともな理由を持つ人物としてである。彼がドン・フェルナンドに受けた仕打ちは、一人の青年をして心底絶望させるのに十分なものである。それは、キホーテが騎士道物語の読み過ぎでおかしくなったという滅多にありそうにない狂気の成り立ちと鋭い対照をなしている。

セルバンテスは、世に氾濫する騎士道物語を退治するために「ドン・キホーテ」を書いたと序文に記している。もちろんそれは嘘ではないにしても、どこか建前上の理由に見える。セルバンテスがどれほど騎士道物語を知悉し、骨がらみになっていたか、本編を読めば一目瞭然なのである。騎士道物語批判は、どこまで本気だったのだろうか?

吉田彩子『教養としてのドン・キホーテ』(NHK出版)によれば、セルバンテスがドン・キホーテを主人公とする物語を産み出す基になったのは、作者不詳の『ロマンセの幕間劇』という作品であることは確実なのだそうだ。主人公はロマンセの読み過ぎで書かれていることを現実と思い込み、牧人たちと争ったあげく、召使いによって家に連れ戻される……今ならセルバンテスは、間違いなくパクリ作者と批判されるはずだ。セルバンテスがまず書いたのは、騎士道物語狂いの老騎士ドン・キホーテがひとり遍歴の旅に出てドタバタ騒ぎを起こし、村に連れ戻される短編小説だったのだから。

セルバンテスは、『ロマンセの幕間劇』を読んで、その主題を騎士道物語に当てはめれば面白そうだと思いつき、一編の小品を書き上げたことになる。この作品が評判になると、セルバンテスは短編を冒頭の七章として続きを書き、長編に仕立てることにした。で、老騎士を改めて騎士道追求の旅に出立させたのだが、その際、騎士の道行きには必須の従者を脇に配した。

こうして生まれたキホーテとサンチョの主従は、やがて小説史上もっとも有名なコンビになるくらいだから、大長編小説の正副主人公にふさわしく、また騎士道物語批判というテーマにもピッタリだった。主従が騎士道物語に合わせてふるまうと、それが真剣であればあるほど(キホーテの真剣さは崇高でさえある)滑稽味を増し、読者の笑いを誘うのである。

セルバンテスは、書物狂いという根本のアイデアが他人の作から借りたわけで、となると、騎士道物語批判という主題も同様の借り物ということになる。『ロマンセの幕間劇』がロマンセ批判を含んでいることは明らかだからだ。セルバンテスは、他人のアイデアをいただいたり、盗作めいたことをしたりするのを気に病むことはなかっただろう。同時代人シェイクスピアがそうであったように。

ただ、自分が暖めていたのではないアイデア、主題で長編小説を書くのは、作者にとって少々心許ない作業であったはずだ。強い内発的な動機を欠いたまま執筆を続けるのは、作家にとってあまり良い状態とは言えない。セルバンテスが最初からそう感じていたかは不明だが、書き進むほどに辛さが募っていったとしても不思議ではない。