カルデニオに招かれた客たち  #32

キホーテ主従やカルデニオらが勢揃いする旅籠に、さらに何人もの客や闖入者が現れる。まずはアルジェでの虜囚の身から逃れた「捕虜」と、イスラム教からキリスト教への転向者である美女ソライダの二人組。捕虜がアルジェからの脱出を語る物語は3章に渡る長さだ。続いて判事と娘ドニャ・クラーラ。判事は新任地であるインディアスに渡る途中であるが、実は彼は生き別れた捕虜の弟であることが判明する。さらに、騾馬ひきの男が見事なソネットを歌うのが聞こえて来る。これは名家の御曹司ドン・ルイスが、ドニャ・クラーラを慕うあまり身をやつして追いかけて来たものだ。この間、キホーテをめぐるドタバタも語られはするが、物語は殆ど旅籠の客たちに乗っ取られてしまう。

ストーリーがなるべく滑らかに進むべきものであるとしたら、跛行と言いたいギクシャクした展開である。旅籠への新入りたちはみな、ドン・フェルナンドとルシンダも含めて、キホーテとの関係によって集まって来たのではなかった。彼らは、カルデニオに引き寄せられた者たちなのである。

裏切られた愛、流浪の身への転落、イスラム教徒との戦いと虜囚、虜囚からの脱出、インディアスという新天地への渡航。客たちに与えられたこうした属性は、カルデニオとその背後にいるセルバンテスが、実人生において、体験したり、体験しそこなったりした諸々なのである。セルバンテスは、自らの来し方や、望んでも叶えられなかった思いを長編小説の中に織り込むことに喜びや慰めを感じただろう、と私は想像する(虜囚の体験をして、それを作品に取り入れたいと望まない作家がいるだろうか?)。この目的のために、作者は、カルデニオという人物を、周到な準備をした上で登場させたのではないか。

しかし、登場間もなく読者を驚かせた狂気が削除されると、残念なことに、カルデニオは登場人物としての魅力までも失う。彼は、立派な梁となって物語の大屋根を支えるほどの器量を持ち合わせなかったのである。セルバンテスは、カルデニオを重要人物として活用するのではなく、周囲に集まって来た者たちにそれぞれの物語を存分に語らせたのだった。かくして、カルデニオはますます影が薄くなり、結果として物語の結構までも崩れてしまったように見える。それでもセルバンテスは、脇役の一人に甘んじるしかなくなったカルデニオを作中から消し去ることをしなかった。

「ドン・キホーテ」の物語の進行が、特に前編後半において錯綜し、混乱していることは、現代の読者を当惑させるだけでなく、刊行当時にも不満を持たれたようだ。吉田彩子氏は前掲の『教養としてのドン・キホーテ』で「物語の合間に……ほとんど関係のないエピソードが本筋を分断する形で挿入」されることについて、「個別的な要素が個別的なままで全体を複雑にしつつ構成する、マニエリスム的な構造」と述べている。17世紀初頭のマニエリスム的な作風に馴れた読者は、現代人ほどには戸惑わなかったのかもしれない。それでも、セルバンテスが後編で、筋と関係のないエピソードの導入について言い訳めいたことを書いているのを見れば、やはりそれなりの批判を受けたものと考えられる。

後編第3章では、学士サンソンが、「ドン・キホーテ」前編の「欠点のひとつとみなされているのは」「『愚かな物好きの話』と題する小説を挿入していること」と語る。「みなされている」とあるからには、これはサンソンの個人的な見解ではなく、少なからぬ人がこの点を指摘したことを示している。また、ここでは『愚かな物好きの話』が「欠点」としてただ一つ挙げられていることにも注目したい。この物語は完全に独立した短編だが、前編後半に現れる他の四つのエピソードは、上述のように、カルデニオという存在に照明を当てるなら、「ドン・キホーテ」という小説に意味を持って繋がっていると言える。後半、小説の形が崩れてしまったのは、カルデニオをキホーテと渡り合えるほどの登場人物にするという作者の目算が外れたから……と私は一応結論づけたのだが、その後別の可能性が頭に浮かんで来た。

そもそもカルデニオは、セルバンテスの積年の思いを詰めこまれた客たちを旅籠に集めるべく用意された人物だったのではないか、ということだ。カルデニオは自ら行動する脇役ではなく、縁のある人々を引き寄せる磁石のような存在だった可能性がある。カルデニオが弱く空虚であるが故に、彼の元に様々な人物が引き寄せられて来たのである。渦巻く台風の中心にぽっかりと空いた「目」のように。彼が自らの意思で行動できなかったのは、こうした企図の故だったのかもしれない。