後編第44章で、「ドン・キホーテ」の原作者(という設定の)シデ・ハメーテは、前編において「物語の本筋から遊離した」短編小説を挿入した理由を、「たえず頭と手とペンを、ただひとつのテーマについて書くことに、そしてごくわずかな人物の口を介して話すことにさし向けてゆくというのはひどく耐えがたい」(牛島信明訳)から、と述べている。本当の作者セルバンテスは、他人のアイデアと主題を借りて長編を作り出そうとしたために、こうした嘆きをかこつことになったのではないか、と私は想像する(もちろん、できあがった小説はセルバンテスの作品そのものである)。
それでも、もしカルデニオが作中で大活躍していたら、「のべつ騎士とサンチョのことばかり語らねばならず、もっと重要でもあれば興味深くもあるエピソードや余談におよぶこともできない」といった愚痴を後編で述べることにはならなかったかもしれない。セルバンテスは、前編が錯綜した構成となったことを反省したのか、後編は「エピソードや余談」ぬきで書くことにしたのである。それは、作者にとって「ひどく耐えがたい仕事」だった。
セルバンテスは小説の歴史上で最も有名な主従コンビを創出し、文学における最大級の栄誉を受けることになったが、栄誉は後世のことで、この小説は作者に大した利益をもたらさなかった。作品は出版後たちまち大人気になったものの、版権を売り払っていたので金銭的な恩恵を被らず、単なる笑い話とみなされていたから文学的な名声とも縁遠かった。スペインでは世紀の後半には忘れ去られ、その後、他のヨーロッパ諸国での「ドンキ・ホーテ」再評価がスペインに伝わって、18世紀から19世紀にかけて国内でも高く評価されるようになったのである。
このブログ、#28に書いたように、またも執筆中断の期間があった。この間に、吉田彩子『教養としてのドン・キホーテ』が「NHKカルチャーラジオ 文学の世界」シリーズにあることを知り、読んだのである。示唆されることの多い本だった。で、論旨を変えることはなかったものの、#30以降、すでに書いていた部分に手を入れた。より正確になったと思う。吉田先生に感謝である。
ただし、#29「カルデニオとハムレット」は、上掲書を読む前に書いたままに近い。シェイクスピアに「カルデニオ」という散逸した作品があることは、この本のおかげで「知った」。「知った」と括弧付きなのは、以前に知っていたのに記憶から消えたと思われるからだ。ネットや事典で調べると、「第二の乙女の悲劇」なる作品が、シェイクスピアの「カルデニオ」に比定されることもあるようだが、内容からして大して関係があるとは思えない。
セルバンテスが「ハムレット」を観たり、読んだりした可能性はないので、カルデニオにハムレットの面影を読み取ったのは私の解釈である。一方、1613年に最古の上演記録があるというシェイクスピアの「カルデニオ」が、「ドン・キホーテ」の登場人物を用いた戯曲であることに間違いない。シェイクスピアは「ドン・キホーテ」を読んでいたのだ! 劇作家はカルデニオから何を読み取り、脚本化したのだろうか? 劇作家は、普通こんな地味な脇役を主人公にしたいとは思わないはずだ。キホーテとサンチョは、19世紀以降様々な形で舞台に上がっている(映画化もされた)。私としては、カルデニオの内に自作の主人公ハムレットの面影を見いだし、そこから一篇の戯曲を構想したのだと思いたい。
それにしても、カルデニオは「ドン・キホーテ」の中で居場所を失ったばかりか、せっかく沙翁に取り上げられながら、その一篇までも散逸の憂き目に遭っている。さしものシェイクスピアも、カルデニオが主人公では失敗作になるしかなかったのかもしれない。かわいそうなカルデニオ。私は、カルデニオをめぐる考察の終わりに、彼の悲運を慰めるため、まだ名づけられたことのない登場人物のあり方に彼の名前をつけるよう提案をしたい(この定義は、前回の最後に記したカルデニオが実は何もしないことで大きな役割を果たしていた可能性を考慮に入れていない。こちらを前回結末部より先に書いたのです)。
<カルデニ男(略して「カル男」とも)> 作者の期待を受けて派手に登場したものの、その後は目立った活躍ができず、いつしか作中よりフェイドアウトする男性登場人物のこと。セルバンテス作「ドン・キホーテ」前編の登場人物「カルデニオ」による。
さて、「ドンキ・ホーテ」については、一旦筆を置くことにしたい。「ドン・キホーテは、なぜ面白いのか?」という問いに対して、#31は私にとってやはりなかなか良い答えなのだ。とはいえ、究めたというほどの感覚もない。だから、新たなきっかけを見つけたり、何か脳内に降って来たりしたら、その時はまた「ドン・キホーテ」に戻ることにしよう。正直に言うと、大作家たちの賞賛を受けつつも、どこか舵の利きに怪しいところのある大型帆船<セルバンテス号>から、そろそろ降りたくなっているのである。