セルバンテスの意図? 場面転換前の幕間  #34

さて、またも、またも長い中断期間があり、その間、注文した筆記具用PCが、発注時の納品の目安から1ヶ月以上遅く届いた代わりに、手配したものから一段上等な機種に変身するという椿事に遭遇した。それはまあそれとして。前回結末部の言を早速裏切ることになるのだが、「ドン・キホーテ」をめぐる考察において、一つ書き忘れたことがあるのでメモしておきたい。

キホーテは、作者セルバンテスによって虚仮にされる主人公であり、そのいたぶり方が徹底していることで――ナボコフは「残酷」と表現する――騎士(と従者のコンビ)は文学史上無類の登場人物になった。厳しくあたるほど、騎士道の夢を捨てないキホーテがより崇高な存在に感じられるようになる、と先に書いた。いま私が気にしているのは、この逆説的な仕組みを作者が意図的に作り上げたのかどうかということだ。作者の第一の目的が、主従を困らせて読者を興がらせることだったのは明白だが、その効用が結局はキホーテ本人を輝かせることになると意識していたのかどうか。

今、この問いに対する結論を出すつもりはない。なぜ面白いのかを考える上で、作者の意図は原則的に重要ではないからだ。キホーテの騎士道物語に関するとてつもない知識、正気の時に垣間見せる底知れない善意や、行き会う人に与える知恵に満ちた助言や教訓などは、作者のキホーテに対する肩入れを仄めかすもののように見える。しかし、殆どの場合、こうした騎士のポジティヴな側面は、その後に訪れる狂気や、主従が被る仕打ち、キホーテ自身の立派とは言えない言行などによって、かえって滑稽さや残酷さを際立たせることになるのである。

また、キホーテが、作者が初めに想定していたより巨大な容量を持つ登場人物となったことは確かだとしても、それは作者がこうした逆説を企図していたことも、逆に企図していなかったことも証明しない。こうなると、セルバンテスの発想の源になった「ロマンセの幕間劇」の主人公がどのように描かれていたのか知りたくなるのだが、ここではあくまでメモのみにして、深入りしないことにしよう。

「ドン・キホーテ」について書いている間、また特にその中断期間中、何冊もの「面白い本」に出会った。ほぼ時を同じくして、絶え間ない耳鳴り(「脳鳴り」と言われる種類のもの)につきまとわれるようになり、音楽を聞くという人生における最大と言ってもいい楽しみの大部分を失ったのだが、以来、面白い本に出会う確率が高まったようでもある。脳内の「補償」作用によって、本を読んだ時に幸福を感じるセンサーの感度が高まったのかもしれない。

ホメロス『イリアス』、『オデュッセイア』を読み終えた(どちらも松平千秋訳、岩波文庫)。傲慢な書き方をしてしまうが、前者はまあまあ面白く、後者は初めのうち「イリアス」より退屈だと思っていたのに、その後とても面白くなった。残酷なお伽話。サイレンの誘惑がほんの数行であっさり終わって呆然としたのも、良い思い出だ。

キケロー『友情について』(中務徹郎訳、岩波文庫)は、鋭く軽やかであるのと同時に重みのある語り口が印象的だった。名言名句が要所要所に。「幸運の女神はご自身目が見えないばかりでなく、取りついた人も大抵目が見えなくされてしまう」「幸運に恵まれた愚か者ほど耐えがたいものはない」カトーを引いて「ある人にとっては、優しそうな友人より辛辣な敵の方が役に立つ」喜劇作家の言葉を引いて「世辞は友を、真実は憎しみを生む」「過ちを犯したことに心を痛めるのではなく、叱られたことを苦にする」

一番の驚きはアウグスティヌス『告白』だった。いやはや、こんなに面白いとは。期待していたモンテーニュ『エセー』がただただ読みづらく、それに続いて紐解いたので余計にそう感じられたのかもしれない。『告白』は、昔からなぜだか読みたくない本だったので、初めて読んでの驚きがさらに大きくなったようだ。ちなみに、「読みたくない」という予感めいたものは当たっていて、この本、面白いのは確かだけれど、著者ともども、好きにはなれそうにない。さらに、読んでいる山田晶訳中公文庫版で言えば、Ⅱ巻に至って「好きになれない」が「嫌い」に昇格してしまった。面白さもそれまでの半分になったが、それでも十分楽しめる。『告白』は、いずれ必ず取り上げる。次回から、いよいよ(?)ヘロドトス。