「アナバシス」の明快な面白さ  #38

ヘロドトス「歴史」に続いて、クセノポン『アナバシス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読んだ。これが面白くて、古い書物の中から生々しい声を聞きたいという願いを満たされ、古代の書物への思いがさらに強まった。どちらも松平千秋訳だったのは、偶然ではなさそうだ。『アナバシス』には「敵中横断6000キロ」という、戦記物や時代小説好きの読者の目を引きそうな副題が付いている。

訳者解説では副題の由来に触れていないが、誰の提案によるのであれ、できるだけ多くの人に手に取ってほしいという願いがなければ、こんなキャッチーな副題がつくはずはない。「イリアス」「オデュッセイア」の岩波文庫版も松平訳で、呉茂一訳から「交替」している。両書も「アナバシス」同様読みやすく、松平氏は平易な訳文を心がける人だったのだろう。少なくとも、私が岩波文庫の販売戦略に乗せられたのは間違いない。

なぜ「アナバシス」が面白いのかについて、謎はない。副題にひかれて読んだ人も満足しただろう。ペルシア皇帝ダレイオス2世の死後、兄アルタクセルクセス2世が跡を継いだものの、弟キュロス(小キュロス)は兄の王位を認めず、戦端を開く。キュロスは優位に戦いを進めたが、自身が唐突に戦死して戦局が一変、キュロスに従っていたギリシア人傭兵1万は、ペルシア勢の中で孤立する。

その傭兵たちが敵中を突破し、死中に活を得るまでの壮絶な記録が「アナバシス」なのである。ワクワク、ドキドキしながら読み進められるので、この本の面白さには謎がないと感じたのである。で、実は書く意欲が少し削がれている。謎について考えると気が重くなるのに(この謎の解明することは自分の手に負えないのではないか)、一方で、すでに解決ずみのこととなると、書く前に意気阻喪してしまう(既に答えの出た謎をうまく説明する作業は単なる労役のように思える)。われながら難儀な性分だ。

軍記は後世に物語化されたものであるから創作の面が強く出るが、「アナバシス」は、実際に副官として奮戦したクセノポンが記した「記録」である。ならば全て事実かというと、読んだ人はそうは思わないはずだ。というのも作者クセノポンが、何というか、活躍しすぎの感があるのだ。しかも、自分のことを「クセノポンが」と三人称で書くので、余計にうさんくさい。もちろん、自らを名前で呼ぶこと自体は珍しいことではなく、#36で「本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが――」という文章を引いたばかりだ。カエサル「ガリア戦記」も同じく、作者は自分を「カエサルが」と三人称で語る。それでも「アナバシス」の作者には好感を持った。自慢する文章が嫌味にならない天与の得な性質を持っていたようだ。

「アナバシス」はまずは目覚ましい戦闘の記録である。高校世界史でギリシアとペルシアの戦争について学んだはずだが、その後、ギリシア人がペルシアで傭兵になっていたとは知らなかった。ギリシア人の軍人としての強さは、当時鳴り響いていたようである。以下、ギリシア傭兵が密集隊形を組んで敵陣に迫ったただけで、恐怖したペルシア軍が敗走する場面。

「両軍の距離がもはや三、四スタディオンほどもなくなった時、ギリシア人部隊は戦いの歌パイアーンをうたって敵陣めがけて前進を始めた。前進するうちに、戦列の一部が列から先へはみ出ると、遅れた部分が駈足で走り始める。同時に全員が、軍神エニユアリオスたたえるときの声に似た叫びをあげると、一人残らず走り出した。幾人かの言うところでは、ギリシア軍は大盾と槍を撃ち合わせて音を立て、敵の馬を脅えさせたという。矢が届く以前にペルシア軍は踵を返して逃走し始め、そこでギリシア軍は全力をあげて後を追ったが、走ってはならぬ、隊形を崩さずに追撃せよ、と互いに呼び交わしていた」

重装歩兵の密集隊形による攻撃は、当時において、弓矢、盾、槍と剣くらいしか武器を持たない軍勢に、鉄製の大型戦車が向かって来るようなものだっただろう。このような戦法はギリシア軍以外には不可能だった。というのも、軍勢が一体となり、高度な戦術を駆使するには、兵はただ命令に従うのではなく、個々が戦法と自らの役割を理解し、さらに「互いに呼び交わ」しつつチームワークを維持する必要があるからだ。そのためには、軍人は「自立した市民」であることが望ましい。こうした資質を持つ者は、当時ギリシア人以外にはいなかった。戦争プロフェッショナル、ギリシア人傭兵の強さの秘密である。