もう一つの声、ヘロドトスの「ヒストリエー」  #41

前回の続きです。「アナバシス」の中で私が心底驚かされたもう一つの声を取り上げる。軍勢は敵勢から逃れて、歩みを続けている。いま、テケスという山に到着したところだ。

「戦闘部隊は山頂に達して……凄まじい叫び声をあげた。それを聞いたクセノポンと後衛部隊の兵士たちは、前方に新手の敵が攻撃して来たものと思った……叫び続ける部隊を目指して後続の部隊が次から次へと駈け登ってゆき、頂上の人数が増すにつれて声がいよいよ大きくなった時、クセノポンは容易ならぬ事態に違いないと考え……騎馬隊を率いて、救援に駈けつけた。するとたちまち兵士たちが、『海だタラツタ海だタラツタ』と叫びながら、順々にそれを言い送っている声が聞こえてきた。とたんに後衛部隊も全員が駈けだし、荷を負った獣も走り馬も走った。全軍が頂上に着くと、兵士たちは泣きながら互いに抱き合い、指揮官にも隊長にもだきついた」

とうとう故郷ギリシアとつながる黒海の見える場所に到達したのである。兵士たちのあげる「凄まじい叫び声」は、傭兵たちの困難な道中につきあって来た読者をも激しく感動させる。将兵にとって残念なことに、苦難はまだ終わったわけではないのだが。それでも(途中息絶えた者は多かったとしても)、この本はハッピーエンドであることを付言しておこう――「アナバシス」は、西南戦争で敗走する西郷軍が、宮崎県北部延岡から九州山地に分け入って鹿児島に到達する行程を思わせるが、結末は大いに違う。司馬遼太郎『翔ぶがごとく』は、西郷軍の悲劇的終幕が分かっているので、読んでいて意気が上がらなかったものだ。

ここで話が少し逆戻りする。#37で「題名の『HISTORIAE』がヘロドトスにとって何を意味していたのかは知りたい」と記した数日後、私は最寄りの公共図書館で#38を書き始めた。Wi-Fiの使えるスツール椅子のカウンター席に腰掛けていたので、1時間もすると尻が痛くなった。休憩のために席を離れてヨーロッパ史の棚に行き、古代史のコーナーに目をやった途端、『歴史の父 ヘロドトス』なる書名が目に飛び込んで来た。部厚い本で、背表紙の文字も特大だったのである(新潮社刊)。著者は藤縄謙三という未知の人(実は松平千秋氏の弟子の西洋古典学者)。パラパラめくって、この本は借りなくてはと即断した。論文ではないのだから、「ドン・キホーテ」以外の書物はなるべく参考文献なしで記すつもりだったが、向こうから視界に飛び込んで来たものを無碍にするわけにはいかない。

結論を先に言えば、ヘロドトスの「ヒストリエー」について私が知りたいほどのことは、藤縄氏が書いてくれていた。「ヒストリエー」は、ヘロドトス出身地のイオニア方言では「調査・研究」を意味するようだ。ヘロドトスは「歴史」という著書全体を、「研究ヒストリエーの発表」と称しており、その調査方法は、各地で権威ある人から興味ある事象について聞き知ることだった。彼の「ヒストリエー」は、私たちの使う「歴史」とは意味がずれているのである。事実、ヘロドトスは現在でいう地誌や民族誌の調査を目的に大旅行をしたという説もあったそうだ。思わず首肯したくなるが、藤縄氏はこれを否定し、ヘロドトスは歴史家の名に値すると述べる。大事件の原因を探求する姿勢を持ち、愛着をもって記録をし、かつ保存しようとしていることなどがその理由である。

松平氏が「歴史」の解説にこの辺りを書いてくれていれば、私が頭を悩ます必要はなかった。だが、松平氏は膨大な研究の蓄積から一般読者に対し情報を提供する際、思い切りよく説明や注釈を省略したり、原意を損なわない範囲で翻訳文を分かりやすくアレンジしたりしているようだ。藤縄氏は、同書で、#35の冒頭で引用した松平訳「歴史」序文の「 」部分を、次のように訳している。

「以下は、ハリカルナッソス人ヘロドトスの研究ヒストリエーの発表である。人間によって生起したことが時の経過とともに忘却されぬために、また偉大なる驚嘆すべき業績、その一方はヘレネスにより、他方はバルバロイによって示されたものであるが、その業績の声誉が消えぬために、とりわけ両者が相互に戦った原因が不明にならないために、これを発表するのである」

上記訳文は松平訳より原文に忠実なようだが、これでは私が「ギュッと心をつかまれてしまう」ことはなかっただろう。藤縄氏は私訳について、「原文は複雑」で「その構造のとおりに日本語で再現するのは困難」だが、「論理構成の忠実な再現を目指して……試訳しておく」と記している。松平訳は意訳とは言えないし、まして「超訳」なんかではないわけだが、原文の「論理構成」からは逸脱しているようだ。私は、藤縄氏が、岩波文庫「歴史」の松平訳に不満があるのでは、と思ってしまった。「邪推力」が妙に発達している私には、両氏の関係に何か不穏なものが漂っている気がする。ゴシップ話みたいだが、ちょっと面白いので、次回に続ける。