不良少年時代 「告白」(1) #44

さて、私も#34での予告に従い、アウグスティヌス『告白』に取りかかろう。山田晶訳中公文庫版を最後まで読んだのである。ただし、第十二巻は斜め読みに近く、最後の第十三巻は本当に斜め読みだった。山田氏は、解説としてⅢの巻末に付せられた「教父アウグスティヌスと『告白』」(素晴らしく読み応えがある)の中で、旧約聖書「創世記」の解釈を行う第十一巻以降の内容もアウグスティヌスによる告白なのだと述べている。私ごときに否定はできないけれど、素人読者にはやはり十巻までとは別物に感じられる(特に最後の巻)。おまけに、それでも頑張って読み通したら、この本はなんて面白いんだろうと思っていた当初の気持ちが少し冷めてしまった。読み始めて当分の間続いたあのワクワク感を、これから甦らせることができれば良いのだが。

その本文は「偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな」と始まり、第一巻の始まりから三分の一くらいは、この調子で神への賛美が続く。信者ならぬ身には空しく響くばかりで、正直、Ⅰ~Ⅲをいきなり買いそろえたのは失敗だったと思った。しかし、第六章にアウグスティヌス本人が赤子として登場したところで、印象が変わる。罪の告白を赤ん坊時代から始めるかなといぶかしく思いつつも、ごく真面目な調子の文章で綴られるのが可愛く感じられた。そして、第七章において「幼年時代の罪」についての言及が始まるや、これは面白いと身を乗り出しそうになったのである。

念のために申し添えれば、第一巻六章までに書かれたことも決して空虚な賛美でないことは理解できた。読み進める内、賛美の言葉それぞれに意味があることが分かって来るのだ。第六章の「神よ、すべて善いものは、あなたから来ます。私の救いのすべては、神から来るのです」という件り、ここだけ読めば、そうですか、信仰が篤くて結構で、という以上の感想は浮かばないだろうが、実はこれ、「告白」の「中心教義」を要約したような文章なのである。これだけで理解できる人は天才。

「告白」の第一の魅力は、やはりアウグスティヌスがうちあける少年期から青年期にかけての「悪行」にある。これなくしては千数百年ものあいだ多くの人に読まれることはなかったし、私も手に取らなかっただろう。アウグスティヌスは、当初は頭のいい扱いにくいタイプの悪ガキに過ぎなかったが、十代半ばになると悪い仲間とつきあって立派な不良へと「成長」する。

「あなたのまなざしの前に、私よりいとわしい者があったでしょうか。遊び好きで、くだらない見世物を見たがり、芝居のまねをして落ち着かず、数え切れないうそをつき、家庭教師、学校の先生、両親をだますので、みな私にはてこずっていました……のみならず、親の地下室や食卓から盗んだこともあります」

「私は……醜行が同年配の友人に劣るのを恥じたほどです。じっさい、私は、彼らが放蕩を誇り、醜ければ醜いほどますます自慢するのを聞いて、たんに行為に対する情欲のみならず、賞讃にたいする情欲によってもかきたてられ、よろこんでそれをしたのでした。」

「無頼漢にひとしいことを実際にやらなかった場合には、やらないことまでやったようなふりをしました。それは仲間に、いくじのない奴、くだらない奴と思われたくないからでした。」

「私は盗もうと思い、実際盗みました……私がたのしもうとしていたのは、盗んで手にいれようと思った当のものではなくて、むしろ盗みと罪それ自体だったのです」

「おお、腐敗よ、奇怪なる生よ、死の深淵よ。してはならないことをしてよろこび、それがたのしいのは、してはならないからであるとは、何たることか」

アウグスティヌスの不良時代の告白には具体性が欠けている。ヤクザや不良、元不良の悪の「告白」が興味深いのは、私見では、人物が実在であることで危うく真実味が保証される波乱に富んだ展開やエピソードと、想像では描けない様々な細部との結びつきによる。アウグスティヌスにはどちらも欠けている。なのに読み応えがあるのは、一つは上記引用にもうかがえる心理分析の的確さによる。そこに、ここでは引かなかったが、悪い仲間と「バビロンの街路を闊歩」するといった生彩のある比喩表現が差し挟まれて文章が活気を帯びる(バビロンは旧約聖書で悪と腐敗を象徴する都市)。具体性はなくとも、アウグスティヌスが書きながら「いきいきと過去を想い起こし」ていたことが伝わって来るのである。

もう一つの理由は、不良時代に限らず、アウグスティヌスが語る時、その真実性を疑う必要がないことだ。全てを知る神に対して「告白」するのだから嘘は無意味であり、不可能でもある。故に彼の言葉には全幅の信頼を置くことができる。簡潔に語られる真実の言葉は、強度において、本当であると信じてもらうために費やされる百万言に勝る。私がアウグスティヌスを好きになれない理由の一つは、ここにある。神を保証人に立てることは、聖職者ならぬ文学者にとっては八百長であり、自殺行為だ。特に小説家にとっては、真実よりもリアリティーの方が重要であり、百万言でしか語れないことを語るのが責務なのだから。