古代ローマの教養小説 「告白」(2) #45

アウグスティヌス「告白」の最大の魅力は(私のような非信者にとっては)、西方キリスト教会の聖人、教父とされる人物が、若い迷いの時期の罪について正直に語るところにある。しかし、彼は勿論ただの悪ガキ、不良少年だったわけではない。飛び抜けて頭が良かった。金持ちではない父親が息子を無理にもよその街に勉強に出したのも、その後パトロンのおかげでカルタゴで修辞学を学ぶことができたのも、彼の抜群の優秀さによる。そのことを、アウグスティヌスはへりくだった態度で、だが抜かりなく本文中に示している。

「私が答案を読むと、多くの同じ年ごろの、いっしょに読んだ者にまさって拍手喝采されました」

「自由学芸と呼ばれる学芸のすべての書物を……私は独力で読み、読み終えたものはことごとく理解しました……それらの学芸が、勤勉で才能のある人々にとってもはなはだ理解困難なものであるということは、それらの学芸を説明しようとこころみて、説明におくれずについてくることができたのは、彼らのうちのもっともすぐれた者一人だけであったので、はじめて気づいたようなしだいでした」

これだけ取り出すと嫌味だが、本文を読んでいてそんな風には感じない。教会に集う学問などない「小さい者たち」の、神に守られた本当の強さにくらべれば、自分の才能など何ものでもないとアウグスティヌスは常にへりくだっているからだ。『柳宗悦 妙好人論集』(岩波文庫)に、市井の愚鈍とも見える浄土真宗信徒(妙好人)の何気ない言葉に、高位の僧侶の説教に勝る信仰の真実が表される、とあったのを思い出す(カトリックと浄土真宗は色々と似ている気がする。余談ですが)。それでも、俺は超優秀だけど、神の前に出ると全然大したことなくてさ……と曲げて読んでみたくなるのは、私の性格の問題だ。

しかし、アウグスティヌスが自らの優秀さを罪としてであっても告白することには、神が「たかぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをたもう」ことを示す(このことは様々な表現で繰り返される)という以上の意味がある。青年時代に虜になっていたマニ教や、彼が当時の水準を超えて深く理解したであろう哲学に対して、何故にそれらが退けられるべきなのかをアウグスティヌスは詳細に論じている。

その「何故」の部分を理解できなかったとしても、アウグスティヌスほど頭のいい人が言うのなら正しいに違いない、と信じることができるのである。そうした機能において、たとえが品下がりすぎで申し訳ないが、選挙や政治運動に登場する学者や「知識人」の役割と相似ることになる。「人々を人々の判断にもとづいて」愛することをアウグスティヌス自身は否定しているのだけれど。

アウグスティヌスの優秀さの告白にはもう一つの機能がある。語り手を、大人を困らせる不良だけれど本当は周囲の大人より頭がいい、というある種の物語の登場人物のように見せることだ。アウグスティヌスは小説や戯曲を書いたのではない、そんなもの関係ないと叱られそうだが、「告白」が書かれた当初から長く人気を保ち続けて来た理由の一つは、本来の意図はどうであれ、アウグスティヌスを主人公とする物語としても読めるように書かれていたことにあるはずだ。それは、どんな物語か?

「告白」という表題は私小説的な醜行、悪行の告白を連想させるものの、実際の内容は教養小説、成長小説に近い。前者の主人公はひたすらな駄目人間(あるいは駄目人間の擬態)だが、後者では隠れた長所や非凡な才能があるのに、世間や大人に抗って道を外れてしまう若者である。人気主人公の定番設定だが、こうした人物の長所をうまく書き表すの簡単ではなく、特に主人公が作者に近い場合には、ある種の危険が伴う。

長所の表現を著者自身の自慢と取られてしまうと、読者が共感してくれなくなるのである。共感を得られるかどうかは、結局のところ書き手の人格による面が大きいだろう。表現技術の巧拙に直接はリンクしない。肝は読者の応援を得られるかどうかであり、多くの読者は表現方法ではなく、主人公の真摯さや人物としての魅力の方に反応する。で、一旦作者が読者と握手できたなら、もはや語り手の優秀さが読者を白けさせることはなく、むしろ我がことのように、あるいは我が子のことのように、主人公の浮沈に一喜一憂してくれることになる。

アウグスティヌスの「自慢」が嫌味にならないのは、神への敬虔な姿勢と共に(それ以上に)滲み出る人間的な魅力によるところが大きい、と私には感じられた。人気のある書き手は、そういうものなのだ。その上、アウグスティヌスの表現技術は卓越しているのである。