日別アーカイブ: 2019年4月15日

好奇心に「たおれる」 「告白」(5) #48

 

アウグスティヌスは、ギリシア語を「残酷な脅迫と罰でもって、はげしく責めたてられて」教えられたために、ギリシア語やギリシア文学を嫌うようになった(古代ローマ時代の学生にとってのギリシア語は、私たちにとっての漢文? あるいは、かつて日本の医学生にとってドイツ語が必須だったような感じか?)。それで、アウグスティヌスは「言語を学ぶうえで、効果のあるのは、恐ろしい強制ではなくてむしろ、自由な好奇心である」と述べる。極めて現代的でもあれば、納得もできる意見なので、私たちはうなずく。

ところが、しばらくして本文中に「好奇心という悪徳」とあるのを読んで、ギョッとなった。実は、先の文章の後に「好奇心の流れを恐ろしい強制がせきとめるのも、神よ、あなたの法による」とあったのに、読み落としていたのだ。Ⅱでは「不必要にものを知りたがる好奇心」が、肉欲と共に、アウグスティヌスにとって克服しがたいものであったことも語られている。好奇心は否定されるべき悪だったのである。

この好奇心批判は、ネット全盛の現代社会においてわかりやすい。クリックやタップで興味のおもむくままにネット上を飛び回っていると、「好奇心の流れ」を断ち切って勉強や仕事に頭を立ち戻らせるのが難しくなる。好奇心が人をネットの囚人に仕立てるのだ。しかし私は、好奇心を「悪徳」とすることには承服できない。自分がネットの虜であることには嫌悪を感じるものの、好奇心の虜であることについては恥じない。それはこの世を生きるのに必要な力だからだ。耳鳴りがやまなくなって、私は音楽を聞く楽しみを失った。音楽は私にとって至高の娯楽と思っていたが、そうではなかった。好奇心は、私を今さら古典を読む大きな喜びに導いてくれたのである。

好奇心が否定されるのは、それが神への帰依を妨げるからだ。アウグスティヌス風に言うなら、好奇心は神の光に背を向けて光に照らされるもののみに興味をいだくことであり、光そのものである神に顔を向けるのを妨げる。好奇心の善し悪しの判断は、信仰によって決まるということになりそうだ。私はキリスト教信者ではなく、好奇心の方には味方をしたい理由があった。そもそも好奇心を否定しながら、アウグスティヌス自身からして好奇心の塊だったではないか。微弱な好奇心しか持たない人間に、真に創造的な文章は書けない。下記は、好奇心をめぐる創造的な文章の例である。 続きを読む