好奇心に「たおれる」 「告白」(5) #48

 

アウグスティヌスは、ギリシア語を「残酷な脅迫と罰でもって、はげしく責めたてられて」教えられたために、ギリシア語やギリシア文学を嫌うようになった(古代ローマ時代の学生にとってのギリシア語は、私たちにとっての漢文? あるいは、かつて日本の医学生にとってドイツ語が必須だったような感じか?)。それで、アウグスティヌスは「言語を学ぶうえで、効果のあるのは、恐ろしい強制ではなくてむしろ、自由な好奇心である」と述べる。極めて現代的でもあれば、納得もできる意見なので、私たちはうなずく。

ところが、しばらくして本文中に「好奇心という悪徳」とあるのを読んで、ギョッとなった。実は、先の文章の後に「好奇心の流れを恐ろしい強制がせきとめるのも、神よ、あなたの法による」とあったのに、読み落としていたのだ。Ⅱでは「不必要にものを知りたがる好奇心」が、肉欲と共に、アウグスティヌスにとって克服しがたいものであったことも語られている。好奇心は否定されるべき悪だったのである。

この好奇心批判は、ネット全盛の現代社会においてわかりやすい。クリックやタップで興味のおもむくままにネット上を飛び回っていると、「好奇心の流れ」を断ち切って勉強や仕事に頭を立ち戻らせるのが難しくなる。好奇心が人をネットの囚人に仕立てるのだ。しかし私は、好奇心を「悪徳」とすることには承服できない。自分がネットの虜であることには嫌悪を感じるものの、好奇心の虜であることについては恥じない。それはこの世を生きるのに必要な力だからだ。耳鳴りがやまなくなって、私は音楽を聞く楽しみを失った。音楽は私にとって至高の娯楽と思っていたが、そうではなかった。好奇心は、私を今さら古典を読む大きな喜びに導いてくれたのである。

好奇心が否定されるのは、それが神への帰依を妨げるからだ。アウグスティヌス風に言うなら、好奇心は神の光に背を向けて光に照らされるもののみに興味をいだくことであり、光そのものである神に顔を向けるのを妨げる。好奇心の善し悪しの判断は、信仰によって決まるということになりそうだ。私はキリスト教信者ではなく、好奇心の方には味方をしたい理由があった。そもそも好奇心を否定しながら、アウグスティヌス自身からして好奇心の塊だったではないか。微弱な好奇心しか持たない人間に、真に創造的な文章は書けない。下記は、好奇心をめぐる創造的な文章の例である。

「犬がうさぎを追いかけるのを円形劇場で見物するようなことはもうありませんが、たまたま野原をとおっているとき同じことがおこったとしたら、何か重大な考え事をやめて、その追いかけごっこに気をとられるかもしれません……私はぼんやり口をあけていることでしょう。」

「家ですわっているとき、とかげが蠅をつかまえたり、くもが網にとびこんだ蠅をまきこんだりするのに気をとらわれることがよくあります……万物を奇(くす)しくも造り秩序づけたもうたあなたを賛美せずにはいられなくなりますが、はじめから賛美に集中していたわけではありません。たおれてもすぐ起きあがることと、たおれないことは別です。」

「たおれる」は、好奇心に負けてしまうことを言うのだろう。山田晶氏は、前者の引用に註を付けて、アウグスティヌスは「生まれつき自然現象にたいするいきいきとした観察力をそなえていた」と記す。実際、この部分を読むだけで、彼が旺盛な好奇心の持ち主だったことがわかる。長じて自ら好奇心を否定しながらも、内からあふれ出す好奇心に幾度となく「たおれ」たことも十分に想像できる。

文庫解説の松崎一平氏は、別の本で、アウグスティヌスは「剣闘技にはひかれなかった」と記しているが、彼の生徒(にして後の信仰の同志)アリピウスの剣闘技への熱中ぶりを描く活き活きとした筆致は、彼が実際に闘技場に行き、少なくとも興味をそそられたことを示している。アウグスティヌスは、ボクシングより競馬を好む人のように「ドッグ・レース」の方が性に合ったのだが。

円形劇場の引用文中、……で示した省略部分には「まさか乗馬のむきを変えようとまでは思わないまでも」とあり、この文章が乗馬での移動の場面を想定していることがわかる。私は、「日本霊異記」のエピソードを思い出した。美濃の男が馬に乗って野原を通っていたところ、美女が手をふるのに誘惑され、女(実は狐)を妻にする話である。アウグスティヌスと狐母との間に生まれる子供は、安倍晴明より霊力が強かったかもしれない。いや、いや、神が「まったく無視してとおりすぎるように、そくざにすすめて」くれるので、そんなことは起こらない? しかし、回心前だったらどうか? ……

上記のような妄想にふけってしまうのは、アウグスティヌスが横溢する好奇心を抑えるのに苦心していたに違いないと共感的に想像できるからだ。そんな人物が書くからこそ、私にとって「告白」は面白い。そして、だからこそ、好奇心を否定し、カトリックへと回心したアウグスティヌスは嫌いなのだ。好奇心の否定は、現世否定の教義に直結する。