古代から近代を超えて 「告白」(7) #50

アウグスティヌスの名、「告白」という書名を知ったのがいつだったのか思い出せない。世界史を習った高校時代には遡れそうだ。読むべき本としてずっと気になっていたが、同時に、内容を知らないのになぜだか読みたくないとも思っていた。その「予感」は、半分あたっていた。聖なる書物があり、絶対的な神の導きがあり、という彼の信仰の世界を否定するのではない。しかし、前回の最後の二つの引用をみてほしい。好奇心の囚人である私は(この歳になっても。幸いにも?)、湧き出る疑問に蓋をし、聞こえて来る声に耳をふさぐように勧める……命令する言葉にうなずくことはできない。アウグスティヌスが教会の壁の向こうに行ってしまったことは、痛恨事なのである。

いや、アウグスティヌスは壁の向こうに行ったどころではなく、そこで聖人とされたのだ。かつての不良仲間は、お偉くなっちゃって、昔はいっしょに悪さをしたのにね、と絡んだだろうか。それとも、アグちゃんがただ者じゃないのはあの頃から分かってたよ、と早速奉る姿勢に転じて、ちゃっかり自分も周囲から一段高いところに置いただろうか。聖人というと、迫害され拷問を受けながら棄教しなかった殉教者、あるいは苦難に遭いながらも布教に努めた伝道者というのが一般的なイメージだろう。安定した暮らしをしていたアウグスティヌスの列聖には違和感がある。しかも、息子を回心に導いたとして母モニカまでも聖人とされている。教会の壁を厚くするのはそれほど立派なことなのか、と信仰心に欠けたニワカ愛読者としては皮肉を言いたくなる。

アウグスティヌスの正直な「告白」のおかげで、私たちは彼の女性問題を知っている。若い頃に子供を産ませた身分違いの女性と長く同棲した後、別の女性と正式の結婚をするために彼女をアフリカに帰す。婚約した相手は、註釈によれば十歳の少女である。それは当時の習慣ということで了承するとしても、彼女が結婚が許される年齢になるまでの二年を待てず、新しい女をつくってしまうとは、真に聖人らしからぬ。結局、回心という出来事があって信仰一途の生活に入ったため、正式の結婚はしなかった。母モニカが亡くなった後にアフリカに戻り、請われて司祭、司教となる。

ある時、ごく真面目に見える知り合いが、女性関係で過ちがあるのはむしろいいことだと話すのを聞いて、そういう擁護の仕方もあるのかと驚いたことがある。芸のためなら女房も泣かす的な……とは違うとして、その過ちがアウグスティヌスの人格や思想を深化させたのは事実と思える。アウグスティヌスは性欲が自らの弱みであることを自覚しつつ、回心した後には、仲間と信仰共同体を作って禁欲生活を続けた。彼は自らの旺盛な性欲に幾度か言及しており、出家後にも自分ではコントロールできない夢精について、何とかなりませんかと神に祈っている。それは厳しい戦いだったはずだ。私はアウグスティヌスを尊敬する。しかし、彼を聖人とする壁の向こうの事情について私が斟酌する必要はないだろう。

こんな年齢になって「告白」を読んだのは良いことだった。私は、カトリックをはじめキリスト教諸宗派の聖人とされるアウグスティヌスにこれ以上近づくことはない。一方で、アウグスティヌスの語る「彼は人間にすぎない」という言明(#49の引用文)に、否定しがたい重い力を感じてもいる。若い頃なら読み飛ばしただろう。父親の旧制高校的リベラリズム、毎日配達される朝日新聞と赤旗といった環境に育った私は、人間や人間が造るもの以上の価値を知らなかった。今もそうした価値を理解できていないのかもしれないが、もはや人間を至上のものと思っているわけでもない。

現代は「人間主義(ヒューマニズム)」の時代の暮れ方にある。古代の終わりの人であったアウグスティヌスの言葉は、中世も近代も貫き通して、今なお力強い。批判めいた言辞を綴りながら、私は自分の綴る文章の軽さに度々気が滅入ったものだ。アウグスティヌスは、LGBT、フェミニズムのポリコレ棒による襲撃をもやり過ごし(取り上げなかったが、アウグスティヌスは聖書に依拠して女性は男性に従属すべき存在であるとしている)、きっと未来へと生きのびるだろう。

中公文庫版Ⅲの後ろの二巻、特に最後の巻は、私には理解できない内容であることは先にも書いた(#44)。教養小説のベストセラー作者が実は黙示録の作者でもあった、とでもいうような難解な記述が続くのだ。山田晶氏は、それでもアウグスティヌスの「創世記」解釈を丁寧に読み解き、註釈を積み重ねてゆくが、一箇所には「このあたり、アウグスティヌスの解釈は自由奔放である」と記している。そうした「奔放」な文章の中に、かつて好奇心の塊だったことをうかがわせる、あるいは好奇心はずっと後までアウグスティヌスの創造性の基盤にあったのでは、と言いたくなる文章が見つかることがある。そうした例を引用して、「告白」の「感想文」の終わりとしたい。

「また私たちは湿気(しめりけ)をふくんだ本性を見ますが、この本性のいたるところに、魚類と怪獣と力のある動物がおびただしく住んでいます。じっさい飛ぶ鳥をはこぶ空気も、水の蒸気によってはじめて、鳥をはこべるだけの密度になるのです。また、地の面がもろもろの地上の動物でかざられ、あなたの似像(にすがた)のようにあなたに似たものとして造られた人間が、まさにあなたの似姿と類似性とのゆえに、つまり理性と知性の能力ゆえに、すべての非理性的動物にまさるものとされるのを見ます」