書けなかったホメロスなど #51

アウグスティヌス「告白」は精々3回くらいのつもりで書き始めたのに、全7回になった。この本には、私のような不勉強な非信者をもかきたてる何かが宿っているようだ。当初の「ドン・キホーテはなぜ面白いのか」考えるというテーマからは、思いがけないほど遠くに来てしまった。全50回で終わりにしようという心づもりだったが、それも超えている。なのにホメロス「イリアス」「オデュッセイア」について書くという決意を果たしていない。

ホメロスの前に、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』(大牟田章訳、岩波文庫)を取り上げるのも断念している。いったん書き始めたのだが、続けられなかった。ヘロドトス「歴史」、クセノポン「アナバシス」が面白かったので、続いて読むならこれだろうと目星をつけたところ、期待は裏切られなかった。『アレクサンドロスの征服と神話』(森谷公俊、講談社学術文庫)なども読んで、ここに書く参考にしようと準備を整えていた。しかし、いざ取りかかったら、「歴史」と「アナバシス」の時のような高揚感が湧いて来ない。「東征記」が、多くの史料を活かして綴られた司馬遼太郎のような歴史「読み物」であるせいなのか。はたまた、古代の戦記については書きたいことは粗方書いてしまったせいなのか。何度かトライして、とうとう諦めた。

ホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」を断念したのは、「東征記」とは事情が違う。書きたい気持ちは強く、書き始めれば続けられるという確信がある。古代の書物らしい「隔絶感」、たとえば冗長さや共感のしにくさなどを読み始めの頃に克服できれば、両書は戦記、ファンタジーとして単純に面白いのだ。その上、私なんぞがどんな「感想」を抱こうが受け止めてくれそうな懐の深さも感じられる。しかし、ホメロスの作品について何か書くには膨大なエネルギーが必要だろうという予感が私をすくませた。アウグスティヌス「告白」に力を吸い取られてしまったのかもしれない。

本格的に取り組む勇気が出て来ないので、「イリアス」「オデュッセイア」の大きな懐に甘えて、ネタバレみたいなことをメモしておく。二大ガッカリ話だ。その一。両作に、かの有名な「トロイの木馬」のエピソードは(ほぼ)出て来ない。その二。「イリアス」では、半神の英雄アキレウスの出撃が極限まで引き延ばされたあげく、彼が急所を射抜かれて死ぬエピソードはない。

古代の書物らしいゆったりした進行に焦らされたあげく、ようやくアキレウスが戦うぞと思ったら、トロイアを攻める軍勢みなで大運動会を始めてしまう。競技の様子が詳述され、それがやっと終わって、アキレウスの活躍でトロイア勢を城の中に押し込めたと思ったら、次にはトロイア方の豪傑ヘクトルの死をめぐる何やかんやでページが費やされる。何と、そこまでで「イリアス」は終わりなのだ。「オデュッセイア」と「イリアス」は時間的につながっておらず、「オデュッセイア」はとっくに戦争が終わった後、長い帰還の旅の途中から始まる。トロイの木馬も、アキレウスの死もすでに過去の出来事。こんなことくらい、みんな知っているのだろうか? 実はこの件については暗黙の禁忌があり、書くと誰かから(ギリシアの神様から?)叱られるのか?

閑話休題。個人的古代戦記ブームの最中、気にかかっていたのはカエサル「ガリア戦記」を未読であることだった。若干苦労して平凡社文庫版を入手したが、誤植が目についたのは残念。読み進めると面白いけれど、なぜだか私の書きたい気持ちを刺激しなかった。ただ、一人称の「私」を「カエサル」と三人称に換えた効果が絶妙で、分かっていてもつい客観的な記録だと思い込んでしまうところは興味深かった。この本については、小林秀雄「ガリア戦記」の引用で、お茶を濁すとしよう(新潮文庫『Xへの手紙・私小説論』より)。感想文はこう書きたいものだ?

「少しばかり読み進むと、もう一切を忘れ、一気呵成(かせい)に読み了(お)えた。それほど面白かった……勿論、別して読後感という様な小うるさいものも浮ばず、充ち足りた気持になった。近頃、珍しく理想的な文学鑑賞をしたわけである。」

「政治もやり作戦もやり突撃する一兵卒の役までやったこの戦争の達人にとって、戦争というのものはある巨大な創作であった。ガリア戦役という創作で、彼が通暁しなかった一片の材料もなかったであろう。知り尽した材料を以ってする感傷と空想とを交えぬ営々たる労働、これ又大詩人の仕事の原理でもある。「ガリア戦記」という創作余談が、詩の様に僕を動かすのに不思議はない。サンダルの音が聞える、時間が飛び去る。」

もう一作。ギボン「ローマ帝国衰亡史」を、「告白」の時代背景を知る参考にと紐解いた。これまた面白くてビックリ。ただし、中野好夫の訳は文末に癖をつけすぎていて、翻訳に期待が大きかった分残念だった。あと、筑摩文庫版は字が小さいのが辛い。長いのでしょうがないのだけれど。大学時代、確か神山四郎先生の「歴史学概論」の授業で「ローマ帝国衰亡史」が取り上げられ、これは読むべき本かもと思いながら手に取らなかった。あの講義は、歴史哲学なるものに目を開いてくれて楽しかったな(授業の後、すぐまたつぶってしまったけれど)。「ローマ帝国衰亡史」は多分生きている間には読み終わらないので、取り上げることはないだろう。

次回から、ブログの表題を「レワニワ書房通信」とし、「その本は、なぜ面白いのか?」を副題として、主副のタイトルを入れ替えます。これまでと違うテーマも扱うことになりますが、その中で#52以降の更新も行い、「風土記」と「ドンキ・ホーテ」の補遺なども書く予定です。