耳鳴りとじゃんけん(3)

耳鳴りの話の続きです。私の期待に反し、耳鳴りの休み時間は拡大ではなく縮小し、一昨年の12月以降、目覚めている間鳴り止むことはなくなりました。このため、まともに音楽を聞けなくなりました。ショックでした。

間の悪い巡り合わせがありました。元はどんなジャンルでも聞いたのに、耳鳴りの数年前から圧倒的にクラシック音楽に傾いていたのです。元々交響楽好きだったのが昂じ、魅入られてのめり込むような状態になっていました。

交響楽は音域、音量の振幅が大きいのが特徴です。数十から百余もの楽器が奏でる音の全てが、完全な静寂から全奏の爆音に至るまでコントロールされた時の凄さ……耳鳴りはこの内、静寂から弱音の部分を台無しにしました。また、私の耳鳴りの音程は高音域に偏り、オーケストラの基盤であるバイオリンの音程と重なります。

もちろんバイオリンのような美音ではなく、初期は蝉の鳴き声に似て、それが段々(2)に書いたような非常ベルや精錬工場の騒音めいたものに変化しました。プロの優れた奏者が多数いても、中に初心者が交じれば音楽になりません。私の耳には専属の下手くそバイオリニストが配置され、こいつは絶対に演奏をやめないのです。

交響曲を聞く楽しみは強制終了されました。ショック、喪失感は大きなものでした。心優しい方なら、私がどれだけ悲しんだだろうかと同情してくれるかもしれません。が、実はそうでもなかったのです。ショック、喪失感は今も尾を引いています。しかし、人間には心理的補償という素晴らしい安全装置が装備されていて、それに助けられたようです。

強制終了と、いきなり音楽を遮断したと誤解されそうな書き方をしましたが、本当は違います。その後も半年近く、耳鳴りの音量が減少する時があれば未練たらしく聞き続けていたのでした。その間、セルバンテスとホメロスなど主に古典を読み、「その本はなぜ面白いのか」考え、ブログを書いていました。

そして、耳鳴りにめげずに読書に集中していると、以前より大きな快楽が感じられることに気づきました。本を読む真実の楽しみを、この時初めて知ったとさえ思ったほどに。ならば、音楽を聞く楽しみが減じたとしても悲しむ必要はない、と悟ったのでした。

脳内の騒音は鳴り止まず、去年の5月頃には自室で音楽を聞くのを完全に諦め、私は耳鳴りとのじゃんけん勝負に敗れました。しかし読書の楽しみの「発見」によって、耳鳴りに外形的には負けたとしても、精神的には勝利したのだという思いが自然に湧いて来ました。音楽こそが至上の楽しみだと信じていたけれど、本が与えてくれる喜びは音楽に優っていた、と。

そう思い至ると、誇らしい、晴れやかな気持ちにさえなりました。しかし、勝負はまだ終わっていなかったのです……。耳鳴りの話、今年の1月30日付の投稿に簡潔に記した後は避けていましたが、実のところすごく書きたかったみたいです。ごめんなさい。誰に謝っているのかわかりませんが、もう少し続けます。