原因はないが、結果はある

真夏の沖縄、風  近所です

更新中断後しばらく、眼痛、頭痛のため本を全く読まなかったのですが、10日ほど前から読書を再開しました。初めは少しずつ。中断前、旧約聖書を読み終える見通しがついたところだったので、他はおいて聖書に専念、新共同訳で旧約の「続編」とされる部分の半分近くまで来ました。

前に旧約通読にトライした際には、#24に書いたように、気持ち悪くなって途中で読むのをやめました。その後、最早いつだったか思い出せませんが、もう一度最初から読み始め、かつての中断箇所は何なく通過しました。いま、好きとか面白いとかとは言い難いけれど、「すごい本」というジャンルがあるなら、私の中でダントツの一位です。

旧約通読の経験は、私の人生の中で善いことの一つだとさえ思っています。なので、「その本はなぜ面白いのか?」の続き#52は、旧約聖書にしようかと思案中。この場合、ドン・キホーテと風土記の補遺はさらに後回しになります。

この先、ブログとサイトの更新は(読書も)目と頭の痛みの様子をうかがいつつになりそうです。更新中断前のこと。多少の痛みはあったものの我慢できるので、集中して作業していたところ、突然、眼球内の鈍痛、激しい頭痛に見舞われました。あんな事態の繰り返しは避けたいと思います。

更新中断の間、読書もPC作業も、途中に休み時間を入れ、また過度に集中しないようにすれば、きつい痛みは起こりにくいと分かって来ました。ただ、PCに向かうとついつい長時間モニターを凝視してしまいます。こうした集中は更新のためには不可欠のようでもあります。うまく塩梅していくしかありません。

病院で検査したところ、数値上は10年、20年前より健康になっており、目にも異常はありませんでした。原因(病変)はないけれど、結果(痛み)だけがある……? 病気になった感じはしなかったので、問題なしだったのは予想通りでしたが。

原因はなく、結果だけがある――耳鳴りも同じです。耳にも脳にも異変はなく、他人は聞くことができないけれど、私の耳の奥ではいつも金属音が鳴っています。この間は歯医者さんで、神経を抜いたんだから痛みを感じるはずはない、と叱られた(?)ことでした。

なぜ痛いのか、そもそも痛みとは何なのか、お医者さんにとっても難しい問題のようです。ただし、詳しい検査はしていません。だから、本当は原因は見つかっていないが、結果はある、が正しいのでしょう。しかし「原因はないが結果はある」と考える方が楽しいので、これ以上の追究はしないつもりです。