旧約聖書の凄さ(2) #53

 バビロンへ続く道(渋谷だったかも?)

前回触れたように、旧約聖書を読むのは荒野、砂漠を行く旅に似ている。オフロードの冒険の楽しみは満載だが、癒しや共感といったものは、思いがけず行き着いたオアシスで味わう清水のように希少だ。荒野、砂漠は平坦ではなく、山もあれば谷もある。モーセ五書、歴史書(ヨシュア記等)はまさにアップダウンの連続だ。それに続く文学書(詩編、箴言等)は比較的楽に読めるが、その後には預言書という険しい山道が待ち構えている。

私の読んだ、続編を入れて1900ページ弱の新共同訳、旧約聖書続編付きの版では、1200ページを過ぎた辺りから読みづらさが増す。ここまで来て、まだ難敵がいたのかとガックリ。何が書いてあるのか、頭に入らないことが多くなる。視点が変わったのに気づかなかったり(しょっちゅう変わる)、いつの間にか文字面だけを目で追って意味がわからないままだったり。同じ文章を幾度読み返したことか。

預言書では、預言者はそれぞれ違っても、語られる内容には共通点が多い。王や人々が主との契約を守らず、ヤハウェ以外の神や偶像を崇拝したり、婚姻などで他民族と混じり合ったりしたことで、主の逆鱗に触れる。このため、ヤハウェは他国の強大な武力を用いて彼らを罰する。外国勢力に蹂躙され、多くの人が遠方に拉致されて捕囚となる。しかし主は彼らを見捨てたわけではなく、やがて捕囚から解放されるだろう、とも語られる。大まかには、こんな感じ。

主との契約がいかに破られ、主がそれに対してどれほど怒ったか、神の言葉を託された預言者がいかに軽視され、国がどのように滅びに追いやられたか、その後に王や民がどんな残酷な迫害を受けたか――これらが預言書ごとに繰り返し記されるのだ。しかもイザヤ書、エレミヤ書の後、エゼキエル書に至って文章はさらに読みづらくなる。険しい登りばかりでただでさえ苦しいのに、霧で視界が閉ざされたかのよう。希望は、あと2、300ページで「正編」が終わることだ……。

こりゃ堪らん、なぜこんなネガティヴなことばかり書いてあるのかと考えこんでしまう。頭を悩ませつつ登っている最中、この8月、私は目と頭の痛みに襲われて本を読むことが困難になった。しばらくは完全に読書を休止し、その後痛みがやわらいでいくのに応じて少しづつ再開。そうした中、いつだったのか思い出せないけれど、あるとき不意に霧が晴れ、旧約聖書の全貌が見渡せる場所にいることに気づいたのだった。

ユダ王国がバビロニアに屈し、その際に有名なバビロン捕囚がおきる。つまり、国と人々を守ることのできなかった主ヤハウェもまた、異教徒の国バビロニアに敗れたことになるのではないか? しかも、この屈辱には前段があった。それ以前にイスラエル王国がアッシリアに敗れて滅び、多くの民が遠隔の地へ拉し去られたのだ。この後ユダ王国ではヨシア王の下で、堕落していた信仰を改革しようとする動きがあった。しかし、これもバビロニアによる侵攻に際して何の助けにもならなかったのである。

イスラエル王国が南北に分裂してできた二つの王国は、外部勢力によって滅ぼされた。では、他国からの侵略に対してなすところのなかった主ヤハウェは信ずるに価するだろうか? こうした疑問が、破滅の淵に追いやられた人々の内に湧き上がるのは当然のことだ。しかし、旧約聖書の書き手は、この疑問をアクロバティックに逆転させることで「解決」する。

主が、堕落した民を――その国王や神官や民を罰するために、アッシリアやバビロニアの王を「神のしもべ」として使い、国と民を蹂躙したとするのである。預言書には罪をあげつらう言葉が並んでいる。もちろん、これを「逆転」とするのは外部の見方である。また、幾人もの預言者による未来への警告や予言については、破局(や捕囚からの解放)後に書かれたとみるのが常識的だ。「預言」にこうした無理があることも、読みづらさの原因なのかもしれない。ただし、この逆転は、旧約の凄さを考える上ではとばくち・・・・に過ぎない。