旧約聖書の凄さ(3)  #54

 バビロンにて(六本木ヒルズではない、はず)

#24で、旧約聖書を読む内、虐殺の記述の連続に「気持ち悪くなり、先に進めなくなった」と書いた。今回難所を無事通過できた理由(の一部)は、古代の戦記を読むなどして、歴史的には、戦いの勝者が敗者側を皆殺しに――子供を産める女性と子供はしばしば戦利品に――するのは当たり前だったと知ったからだ。ユダヤ人の祖先も同じことをしていたのである。

大澤武男氏の『ユダヤ人とローマ帝国』(講談社現代新書、2001年)では、「早くも旧約時代に絶滅の陰謀」(ナチスにまで繋がる「ユダヤ民族絶滅の陰謀」の意)の小見出しの元、エステル記が引かれている。アケメネス朝ペルシア時代、クセルクセス王の重臣ハマンは、独自の信仰に凝り固まった「ユダヤ人は危険であると感じ、ペルシャ全土に散在しているユダヤ民族を絶滅させようと企んだ」が、ユダヤ人女性エステルの美貌と勇気と狡智によって救われた。バビロン捕囚からの解放後も故郷に帰らなかったユダヤ人が、その宗教的な独自性のために絶滅されそうになったというのである。

大澤氏は、だが、その後ユダヤ人が王に許されて行った復讐は記さない。ユダヤ人は「集合して自分たちの命を守り、敵をなくして安らぎを得、仇敵七万五千人を殺した」(エステル記9-16)。ハマンは「アガグ人ハメダタの子」とあり、仇敵とはアガグ人(アマレク人)を指す。彼らのその後は知られず、この際に「絶滅」されたのかもしれない。ユダヤ人に限らず、部族ごと絶滅という事態はあり得たのである。そして、「捕囚」もまたユダヤ人だけに起こった出来事ではなかった。

前回記したように、バビロン捕囚の前に、イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされ、人々は他郷に引き立てられた。その跡に他郷の人々が住まわされたのだが、彼らも強制的に移住させられたのである。勝者が敗者に無理強いするこうした居住地交換も、ままあることだった(旧ソ連や、現代の中国でも類似のことが行われている)。

アッシリアに敗れたイスラエル王国の人々は、バラバラに移住させされて民族の一体性を失い「消滅」した。一方、バビロニアでは捕囚とされた人々は比較的寛大に扱われ、かたまって居住することができた。このため、集団としてのまとまりを維持することができた。

しかし、故地から引き剥がされて住まいながら、他国の支配下で民族のアイデンティティーを保つことは極めて困難である。捕囚後に「失われた民族」はいくつもあったと推定される。バビロニアでは各民族が独自の祭祀を行うことができたが、その場合でも支配勢力の宗教的な影響を受けないではすまなかった。ユダ王国から来た人々の中にも、ヤハウェ以外の神への祈りや偶像崇拝が行う人たちが多くいたのである。

旧約聖書の大本は、このような捕囚という民族的な危機の状況下で作られたのだった。モーセ五書はバビロン捕囚の時代に、その後はペルシア時代にかけて「編集」されたものとされる。ユダヤ人やユダヤ教という言葉も、実はバビロン捕囚時代以降の状況に対応したものであり、専門家は使い分けをしているようだ。そもそも「旧約聖書」もキリスト教側からの呼び方なのだが、この辺りについては改めて触れる。

上述のように、ある集団が「捕囚」とされる事態はユダヤ人にだけ起こったことではなかった。なのに、私たちは、なぜ、ことさらにユダヤ人の「バビロン捕囚」を(内容はともかく、少なくともその言葉を)当たり前のように知っているのだろうか? 世界史の時間に習ったくらいだから、それは当時における世界史的な大事件だったのだろうか? 答えはNO。

ユダヤ人の「バビロン捕囚」について、旧約聖書以外に残された記録はない。アケメネス朝ペルシアの大王キュロスは他民族の捕囚からの解放を行い、ユダヤ人もその際に故地への帰還を許されたのだが、キュロスが自らこの業績を誇った碑文にユダヤ人のことは記されていない。記録するに価しない弱小民族だったのだ。なのに、「バビロン捕囚」は、なぜ「有名」なのだろうか? 答えはある意味明快である。旧約聖書に書かれているから。旧約聖書の凄さの本体にようやく近づいて来た。