日別アーカイブ: 2019年10月25日

旧約聖書の凄さ(5) #56

バビロンの祭り(町田だったかも?)

バビロンは古代都市の固有名であると共に、特にキリスト教世界において邪悪や淫乱の象徴でもある。この悪名はバビロン捕囚抜きには考えられない。紀元前6世紀のバビロンには、ユダ王国だけでなく、ネブカドネツァルが征服したいくつもの国の人々が捕囚として住まわされていた。ユダ王国以外の多くの人々は、この「魔都」に留められる間に民族的な同一性を失っていったようだ。旧約聖書以外、捕囚された側の記録が残っていないらしいのは、ネガティヴではあるがその証左となりそうだ。

一方、ユダ王国の人々は自らの同一性を保持しようと決意し、実行する。その成功の結果として現在につながるユダヤ人、ユダヤ教が析出されたのだった。捕囚後エルサレムの神殿でヤハウェを祭ることができなくなると、互いに寄り集まって礼拝するようになる。これがシナゴーグでの集会につながる。信仰の身体的な刻印として割礼や、日常生活の型枠として週に一度の安息日を守ること、食べ物の禁忌なども、ヤハウェ信仰と独自の民族性を保持し続ける強力な装置となった。

ユダヤ教、キリスト教は「一神教」というのが常識だが、「ヤハウェの他に神はなし」という「唯一神教」として確立されたのも、実はバビロン捕囚以降のことである。それまでのヤハウェは、「私たちが契約する唯一の神」や「神々の中で最も優れた神」だった。そのつもりで旧約聖書を読み返せば、「ヤハウェの他にも神がいる」ことを示唆する記述はいくつも見つかる。山我氏の『一神教の起源』では、これを旧約編纂時の「検閲漏れ」と書いている。例を見てみよう。 続きを読む