日別アーカイブ: 2019年11月15日

旧約聖書の凄さ(8)  #59

彼方から呼ばわる声が聞こえた日の夜明け(適当)

旧約聖書は、弱小民族が過酷な歴史に翻弄される中、生き残りのために編んだ叡智の集成だった。旧約の凄さは、つまるところ、そこにある。ヤハウェ信仰につながる人々は、アッシリア、バビロニアによる侵略と捕囚、ペルシア、ローマ等による支配を受けつつも、旧約聖書を完成させ、ユダヤ人としてのまとまりを維持した。一方、たとえば彼らの国を滅ぼした大国アッシリア、バビロニアは歴史の流れの中で滅び去り、その後、民族集団としてのアッシリア人、バビロニア人は消滅してしまう。

旧約の中で、ユダヤ民族の生存戦略のイデオロギー的な側面が最も顕著に現れているのは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言書だろう。予言者たちは、敗残の同胞にこう語りかける――主は他国の神に敗れたのではない、主の他に神はいないのだから。我々を蹂躙した敵は、我々を罰するために振るわれる神の鞭なのだ。だから、支配者に対して抵抗するな、主は、我々が主との契約を破り、罪を犯したことを許しはしない。しかし、主は我々を見放さず、やがて救いの手をさしのべるだろう。

預言者たちは、自分たちの犯した罪と下される罰について熱弁を奮う。それが(短いとは言えない)預言書を通して執拗に続き、読んでいる私の脳内には濃霧が立ちこめて来るかのよう……だったのが、ある時一挙に展望が開けたことは前に述べた(#52)。旧約の罪と罰というテーマは、預言書以外の箇所では、物語化されたり、詩文化されたりしてある程度受容しやすくなっている。しかし、預言書はイデオロギー剥き出しなのである。そのため、預言書からは、はるか遠くで呼ばわる「声」が、聞き苦しいほどしわがれてはいるが真剣そのものである「声」が聞こえて来るのである。 続きを読む