頭痛とじゃんけん

すぐにでも前回の続きを書くつもりでいたのに、思いがけず長い休みを取ってしまいました。一番痛かったのは、書く時間を取る予定だった数日間に、久々の強い頭痛に見舞われたことでした。再発しないか、今もやや不安です。身体が手前の言うことを聞いてくれないのは承知しています。ブログを始めた時から、長いスパンの取り組みという心づもりでしたが、それが無限に長くならないよう「おからだ様」に協力をお願いしたいところです。

……とここまで書いたところで再発、何とも間抜けな展開ながら笑うこともできず、休みがさらに延長されてしまいました。今はまだ恐る恐るという感じです。書きたいことを書く。時間ができれば本を開く(眼鏡のせいなのか、読書すると頭痛がひどくなる)。そういうことが実は贅沢だったと知りました。

書くことは一種の快楽です。ただし、長距離を走る人が感じる苦痛と不可分であるような種類の(走る趣味はないので本当のところは知りません)。旧約聖書について記すのは、かなり面倒くさいことで、8月下旬に旧約について書きたいと表明した後、九月末に「旧約聖書の凄さ(1) #52」を投稿するまでかなり間が空いたのは、頭痛のせいもありますが、どう書き始めたらいいのか全く分からなかったのが要因です。

だいぶ悩んで、旧約を扱うつもりなんて書かなければ良かったと後悔しました。もちろん、このブログは私が勝手にやっていることなので、そんなの撤回すればいいだけです。あるいは、ブログ自体いつ放り出しても構わない。ここまで書いて突然、小説を世に出すようになった昔、最近の書き手は本当に書くべきことがあるように見えない、といった類の評言を受けていたことを思い出しました。

結構よくある批判だったのですが、そう言われると、中身がからっぽであることを見抜かれたようで、ちょっと痛かった。何者かであると認めてもらいたいという「野心」しか自分にはないのかも、と自省したり。そして今は、ご覧の通り。書きたい気持ちだけでブログを続けています。私にしか書けないことがあることも、長い歳月の間に知りました。ちょっと遅すぎですが、知らないまま死ぬよりは良かった。

その後、旧約について何とか書き出したものの、しばらく難渋が続きました。聖典にして律法、民族の歴史の正典でもあるものを、歴史書や文学書のように読み、何か書くというのはやはり大変でした。でも難しければ難しいほど、得られる楽しみは増大します。#54の途中から興が乗り、#55#56はどんどん先を書きたくて、いてもたってもいられないほどでした。なので54、55、56の間はそれぞれ3日と4日しか空いていないのです。

この期間、いつになく気分が高揚し、内容についても手応えを感じていました。しかーし。読み返してみると、乗りに乗って書いた#54~#56が他と較べて出来がいいなんてことは全然ありませんでした。残念。

さて、ここまでビクビクしながらPCに向かっていたのですが、やっぱりというか、頭痛がまたきつくなって来ました(頭痛自体は慢性化して、途切れることは最早まれ)。ガックリ。前回予告した『誰も教えてくれない聖書の読み方』に関しての続きは、次回に回します。次回がいつになるか分かりませんが。頭痛への対処をしつつ、この憎い敵とのじゃんけんに勝機を見つけたいと思います。