新型コロナとアメリカのナボコフ

ナボコフ「青白い炎」について、「その本はなぜ面白いのか?」1回分の原稿を書き上げたのですが、出来に満足できず没にしました。これまで、うまくいかない場合でも何度か書き直せばどうにかなったのですが、今回は駄目でした。原因は二つあったと思います。

一つは新型コロナ情報の遮断に失敗したこと。アップデートされ続けるニュースやトピックに圧倒され、一旦のぞき見してしまうと情報の流入を止められなくなります。情報を追いかけている内に、書く集中力が途切れてしまいます(こんな状態では、『女神の肩こり』の自己解説など、はるか未来の夢物語のよう)。

二つ目は、ナボコフに関して「余計な情報」を摂取してしまったことです。具体的には『アメリカのナボコフ』(森慎一郎 慶應義塾出版会 2018年)を読んだために、調子が狂いました。私はナボコフ信者を自称しながら、作家その人については本のカバー裏のプロフィール程度しか知りませんでした。

講義録を読んで、ナボコフは作品を作家や思想を安直に結びつけることをせず、作品内部にとどまって読み解く主義の人だと理解していました。私自身、元から作家への関心が薄く、好きになってもその生涯や私生活の情報を追いかけたことがありません。ナボコフの作品それ自体を重視する姿勢に共感していたこともあり、新聞のコラムを書く時、戯れに信者と称してみたのです。

しかし、メディアへの寄稿と違って、このブログにいい加減なことは書けません(?)。私は非常に厳しい編集者で、担当する書き手に手抜きを許さないのです。で、ナボコフについて述べようとするなら未読の資料にあたっておくのが良いだろう、と書き手と編集者がそろって殊勝になったのが失敗の元でした。

『アメリカのナボコフ』には「塗りかえられた自画像」と副題がついています。ナボコフと出版社との関係のあり方や、ナボコフがイメージ操作を行って自己の作家像を造りだし、過去の作品を改変したことなどが記されています。ナボコフとその作品を「文化的な生産物カルチュラル・プロダクト」として学問の俎上に載せているのです。

だから暴露本ではないのですが、アカデミックな装いをこらしたゴシップ本と言った側面があることは否定できません。作者個人に関心のなかった私にも興味津々、中には金銭面についてなど、知らない方が良かったと感じさせる情報も沢山ありました。信仰が揺らぎそうになるほどに……。

かつて私は、ナボコフのスイス移住について、『ロリータ』が売れたおかげで大学勤めを辞めることができ、静かな環境で執筆に専念しようとしたのだろうと推測していました。ロシア人はスイスが好きみたいだし……。実際には、ナボコフはスイスで文学的スター、セレブリティーとしての生活を楽しみつつ、文学上の功績が自分の意に沿う形で後世に残るよう、妻や息子と「工作」に励んでいたのでした。

実は、「青白い炎」について書こうとする際、スイス移住の件が最も大きな問題だったのです。これについては次回に書くことにします。今度こそ「その本はなぜ面白いのか? #61」にするつもり。だから、コロナよ、おとなしくなれ!

念のために付け加えれば、私は(一周回って)ナボコフへの信仰を取り戻しています。文化的でない「生産物」を愛することだって可能なのです、ましてや……篤信者が、教祖や教団に関する望ましくない「真実」を聞かされ、一度は動揺しても、結局信仰を捨てないというのに似た事態かもしれません。幾分か信仰の純粋さを失った気はしますが……まあ、純真なナボコフ読者って、ネットの言い方を借りるなら「清純派AV女優」というくらいには変でしょう。