キホーテ、カルデニオ、ハムレット(5)結論  #66

シェイクスピアは、ドン・キホーテのカルデニオを「二重の欺瞞」のフリオに取り替えたりしない。ハムレットの作者の目に、復讐の企図と実行の合間から逃げ出して内省する半狂人と、直情的に修羅場に躍り出てしまう考えのない若者が同じに見えるはずはないのだ。近代以前のヨーロッパ人が内省をしなかったわけではないだろう。内省という精神的な営為がまだ認識されていなかったのだ。

そうした人々にとってカルデニオは理解し難く、フリオは受け入れられやすい。その上、単純な青年は劇をスペクタクル化する。セルバンテスの原作にしたがって、緊迫した結婚式の場面が活劇でなく主人公の独白に続くとしたら、観衆は喜ばないだろう。絶頂期のシェイクスピアがハムレットのような素晴らしい独白を書くのでなければ。この改変は、誰が行ったのか?

前回述べたように、「二重の欺瞞」のプレゼンターであるルイス・ティボルトによれば、1613年初演の「カルデニオの物語」は17世紀後半に改変されている。タイトルと登場人物の名前の変更という、もし偽作者であれば下策と思えることをティボルドがしたのか否か考えるなら(普通はしない)、本当にその時期に改変が行われ、ティボルドが引き継いだ可能性は残る。

しかし、ティボルド自身にも改変の動機はあった。「二重の欺瞞」は1727年に初演されており(翌年出版)、その際観客に受けるものにするように主催者から圧力がかかっていたらしいのだ。シェイクスピアの時代には問題とならなかった複雑な筋立てや長さが、ティボルトの時代には許容されなくなっていた。結婚式の場面も、観客に受けるために活劇に書き変えても不思議はない。

1733年、ティボルドが編集したシェイクスピア全集が出版される。そこにシェイクスピア作のはずの「二重の欺瞞」は収載されなかった。上記のような大きな改変をしたからだろうか。もちろん、ポープをはじめ批判者たちはこれを偽造の自白と見た。「二重の欺瞞」はティボルトの偽作という評価へと傾いていく。

前回、著書の書影を示したハリエット・フレイジャーもそうした批判者である。しかし、彼女は、私のカルデニオ-ハムレット説の後押しもしてくれる。彼女はティボルドを偽造者と断定し、こう書く。「『二重の欺瞞』における最大のシェイクスピアからの模倣echoesの源は、疑いもなく『ハムレット』だ」「二重の欺瞞」公演の前年に出版された著書の中で、膨大なハムレットの註釈を書いたティボルドの心は「この劇に全ての面で浸潤saturatedされていた」

フレイジャーの著書は1974年刊、コンピュータのデータベースも文体統計解析もない。現代人の目からは、印象でハムレットに似た箇所を抽出しているように見える。彼女は単なるシェイクスピアの偽造ではなく、「ハムレットっぽい偽造」とみなしていた。アーデン版『二重の欺瞞』の編集者ブリーン・ハモンドは、イントロダクションで、フレイジャーのティボルド偽造説を新しい研究成果に基づいて退ける。

一方で、アーデン版「二重の欺瞞」本文につけられた註釈では、主にシェイクスピアから類似する表現や場面が抽出されているのだが、ハムレットを参照するケースが断然多いのである。索引によれば、ハムレットから34。次に、多い順にシンベリオン22、冬の夜話20、嵐16と続く。その他の作品はハムレットの三分の一以下である。

上記3作品はシェイクスピア単独作としては最後の一連のものであり、「二重の欺瞞」に制作時期が近いので似た表現が多くても自然だ。ハムレットだけが十年近く前なのである。「二重の欺瞞」はやはりハムレット的だ。なぜなのか? フレイジャーは、ティボルドの頭がハムレットで一杯だったから、とする。

ハモンドは彼女の偽造説を否定し、一緒にハムレットっぽさという見方をも流し去った。そうしながら、彼はハムレットを最も多く参照する註釈を作ったのである。もちろん、ハモンドは、私が言い出したに過ぎないカルデニオ-ハムレット説など知らない。ハモンドも、フレイジャーと共に、その意図と関係なく私のカルデニオ-ハムレット説を応援してくれているかのようだ。

なぜ「二重の欺瞞」はハムレット的なのだろうか? 誰が書いたにしろ、あえてハムレットらしくしようとしなければ、そうはならない。それができたのはティボルドだけだが、偽造説はほぼ否定されている。もう一つは、「二重の欺瞞」の下敷きとなった「カルデニオの物語」がハムレット的であった可能性だ。この劇の共作者の片割れは、この作をハムレットっぽくする能力をティボルト以上に持っていた。

おまけに、彼、シェイクスピアにはそうしたい動機もあった。シェイクスピアはドン・キホーテを読んで、カルデニオにハムレットとの同質性を見つけていたのである。つまり、原作である「二重の欺瞞」が、後でどれだけ他人の手が入ったにしろ、強力なレイヤーとして「二重の欺瞞」をハムレット的に見せていたと考えられるのではないか。犯人はシェイクスピア、と断定したくなる。

他にもカルデニオ-ハムレット説を補強する材料はある。たとえばハモンドは上掲書で、ハムレットに特徴的な二詞hendiadys一意がこの劇の中で普通でないほど頻繁に使われているというHenry Salernoの研究をあげている(ただしハムレットではなくシェイクスピアのエコーとして)。研究者でない私は、こうした例を追い切れそうにない。ここらで、探検はお終いにしよう。

私は確信している。シェイクスピア作の「カルデニオの物語」では、カルデニオは結婚式に乱入しなかった。混乱する式場から静かに退出した後、苦しい独白をしたはずだ。セルバンテスのカルデニオがそうしたように。カットされた独白は、ハムレット流のものだったかもしれない。自分という牢獄の中で起こった心の暴動……聞いてみたいけれど、それは残らなかった。

カルデニオのエピソードは、それなりに面白みがあるし、内省という時代を超える要素を持っていた。しかし、到底ハムレットに匹敵するものではない。エピソードの魅力も登場人物の力量もまるで違う。シェイクスピアもまた、原作の弱々しい登場人物を反転させ、ハムレットなみの名台詞を語らせるほどの力は最早持たなかったようだ。

真に僭越な物言いながら、「二重の欺瞞」の研究者はおしなべてドン・キホーテへの関心が薄い印象だ。そのせいなのか、シェイクスピアがドン・キホーテをどう読んだのか深く考察することは、これまで行われて来なかった。かつては困難だったとしても、「二重の欺瞞」に新しい光が当てられ、それは可能になった。私はこんな試論を書いた。カルデニオとハムレットの類縁関係について、さらなる考察が行われることを願う。

文献
Harriet C.Frazier Babble of Ancestral Voices Mouton、1974年 この他の文献については、前回以前の文献リストを参照。