フアン・ルルフォの二冊  #67

ガルシア・マルケスは、フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』を「寝るのも忘れて二度読んだ。そしてあくる日『燃える平原』も読んだが、驚きは少しも変わらなかった」そうだ(『燃える平原』解説)。私は『燃える平原』を先に読んだ。すごいものに出会ったと思った。本に印刷された文字ではなく固い土塊つちくれを読んでいるみたいだ。旧約聖書がこんな感じだった。面白いとか面白くないとか関係なくページが進む。

『ペドロ・パラモ』は遠くの書店にしかないので、品切れだったがAmazonに注文した。予定より早く、『燃える平原』を読み終えて間もなく届いたので、メイン・ディッシュを待ち焦がれていた人のように、涎を垂らさんばかりに読み始めた。が、うん? 何か違う。色んな人の声が入り混じって、誰の言葉を聞いているのか、そもそも誰がいるのかさえ分からなくなる。その多くが、あるいは全部? 死人なのはいいとして、死が作品の全てを覆い尽くしてしまうのは、死をテーマとする小説が苦手な私にとって印象が良くない。

読了後、最初から読み直し始めた。そうするのが自然だと思えたのは不思議なことだった。そして、マルケスが二度読んだのも当然、と早合点しそうになった。だって一度読んだのでは、この小説の内容はつかめないからだ。二度目には、誰が語っているのか見当がつく……どころか、次第に明快に分かって来た。となるとマルケスは、学生の時に訳し始めたという訳者杉山晃氏も、最初から理解して読んでいた可能性があると思い直した。私には難しかったということだ。

一度目と違って、二度目では気に入った。直後に『燃える平原』の再読にとりかかる。そうしなさいと本に促されたみたいに。すると土塊のような異物感は消え、理解可能な「小説」がそこにあった。土地と人が死と近親相姦で結びつけられて……云々というような。『ペドロ・パラモ』を読んだことで理解が届く範囲が広がったのだろうか。共感を拒絶され、しかし理解力が到達できるギリギリの場所にとどまることで、今、ここからの距離のはるかな遠さに、深い、大きな楽しみを味わう――そんな旧約のような感触は気配しか残っていなかった。旧約はやっぱり凄いな。いくら触っても土塊のままだ。

それは残念だったが、再読では初読とは違う楽しみが得られた。最初の時には簡潔で酷薄な語り口に、ヘミングウェイやカーヴァーを連想したのだが、二度目ではフォークナーかなと思った。原著は、『燃える平原』が1950年、『ペドロ・パラモ』が1953年。また初読では後半の短編の小説らしさが、距離を欲する私にはやや不満だったのだが、再読ではそうした違いはさほど意識されなかった。

マルケスより先にルルフォを読んでいたら、とつい考えてしまう。『百年の孤独』は色々な材料があると一応知っていたが、これは素材そのものだ。それがマルケスの価値を下げるとは思わないけれど、随分うまく使ったと感じさせるのも確かだ。生まれ滅びていく場所をマコンドという単一の地名に結晶させたこと、「族長」を人物というより神話的な英雄としたこと、死者を生者の中に紛れ込ませたこと。そうしたことを通じて、マルケスの作品は象徴的な刻印のようなものになったと思える。

一方、ルルフォの作品は何かを象徴してはいない。ただ寂れた町があり、地元のボスや、言葉を交わす死者がいるばかりだ。たとえばメキシコという国は、ルルフォの作品からは見えない。ましてや「ラテンアメリカ」など……。マルケスの作品を読む時、南米という大きな世界を意識しないではいられない。南米のことを知っているわけでもないのに。

一方、ルルフォの作品では、社会が、死んでいようと生きていようと人物を拘束している。女たちは、父や叔父や地域のボスに性交を強いられる。男たちは罪を犯すが、それを神ではなく社会が許すのだと信じて疑わないので、罪の意識を持つことはない。町を破壊する革命家たちは、政府軍がそれを見逃している間だけその奔放な自由を行使できる。政府軍は国家の代理ではなく、社会の一部として作品中に現れては消える。

マルケスの町や独裁者は、社会ではなくもっと大きな場所を起源とする生の波動によって生まれ、滅びていく。歴史というべきか。それは圧倒的に生者の世界である。死者は生者の躍動するリズムによって呼び覚まされ、ついうっかり生者の中に紛れ込んで来たかのようだ。一方、『ペドロ・パラモ』には死者しかいない。死者の溜め息が作品を満たしている。

ルルフォの世界にメキシコはないと書いたが、死者の世界としてならメキシコは存在する。アステカの死の儀式や、スペインや合衆国との暗い歴史が陰画として浮かび出る、とみなすのは偏見かも知れない。しかし、メキシコとコロンビアが、ルルフォとマルケスの対比のように見えてしまったのは、私の中では事実なのである。

コロンビアの「麻薬王」、メデジン・カルテルの創設者パブロ・エスコバルは広大な自宅の敷地に私設動物園を作ったことでも知られる。一方、メキシコの麻薬組織となると、死体の損壊など残虐さで悪名高く、陰惨なイメージしか浮かんで来ない。どちらが暴虐なのか、本当のところは分からないのに。

いつになく速いスピードで書き飛ばしてしまった。カルデニオのことで柄にもなく頭をうまく働かせようとして懸命になり、神経が疲れた反動かもしれない。たまには、こんなことがあっていいことにしたい。何か間違った、変なことが書いてあっても、お許しを。