トリュフの行方――カルデニオ問題、補遺の補遺

カルデニオ-ハムレット問題はブログでは終わったはずでしたが、2016年刊の本を追加で購入したら(本文124ページなのに送料・税金込み約4000円!)示唆に富んでいたので、メモを残します。Deborah C.Payne(編著)、Revisiting Shakespeare’s Lost Play : Cardenio/Double Falsehood in the Eighteenth Century Palgrave Macmillan。

巻頭に置かれたロバート・D・ヒューム教授(ペンシルベニア州立大学)の「『カルデニオ』/『二重の欺瞞』問題の評価assesment」では、梗概に「二重の欺瞞」に「混じり気なしのシェイクスピアは殆どあるい全く含まれない」とあって、私の説にとってまずそうだと危惧しましたが、全文を読んだら大丈夫でした。私のカルデニオ-ハムレット説では、純粋無垢のシェイクスピアの証拠がなくても困りません。あれば素晴らしいのですが。

一方でティボルド偽作説は明確に否定しており、ティボルドが17世紀後半の何らか原稿を元に作業したのは事実だろうと記しています。同書の別の著者は、シェイクスピア作かどうかはともかく、ジェイムス王朝時代(17世紀初頭)の劇風が残存していると述べます。こちらの意見は少々困ります。シェイクスピアが作者(の一人)でないと、イギリスとスペインの二人の文学的巨人の出会いが実現しません。

ヒューム教授は、1613年に公演された「カルデニオの物語」がフレッチャーとシェイクスピアの合作だったという唯一の記録(1653年)は証明にはほど遠いとしつつ、行き届いた議論の末に、シェイクスピア作の信者believersたちに「多大な犠牲pyrrhic victoriesを払って得た勝利」を宣言します。結語では、意訳的にまとめれば、「二重の欺瞞」にシェイクスピアの手が加わった可能性は認められるけれど、場面や行文に証拠をみつけようとしても骨折り損でしかなく、結局のところ空騒ぎに終わるだろう、としています。

出所が怪しく美味とは言えない「二重の欺瞞」という料理の中に、シェイクスピアというトリュフが入っていたとしても、激しくごった煮になっているので見つかるはずがないというわけです。しかし、トリュフの破片は捜し出せなくても、その料理からはシェイクスピア作ハムレットの香りが漂っているという証言があります(#66参照)。私見では、ハムレットというピースを導入すれば、空騒ぎの喜劇から脱出できます。

上掲Revisitingにも、カルデニオ-ハムレット説を補強する論文がありました。「二重の欺瞞」が偽作である可能性は消えたとしても、ハムレット風味を付与できた沙翁以外の唯一の人物、最後の料理人ティボルドがそうした加工をした可能性までも否定できたわけではありませんでした。しかし、編著者ペイン准教授(アメリカン大学)の論文は(その論旨とはかかわりなく)、彼がハムレット的な味付けをしたはずがないという有力な証言となっています。

ペイン准教授によれば、ティボルドは演劇は観衆を道徳的に高める内容であるべきと主張しており、ハムレットに対しては否定的でした。一方「二重の欺瞞」は、ティボルドが、宿敵アレクザンダー・ポープとその演劇面での代理人とみなしていたジョン・ゲイに対し、敵方の演劇のありようを否定し、彼の演劇観を主張すべく上演したものでした。その劇に、ティボルドが自身の評価しないハムレット風味を加えたはずはありません。犯人はシェイクスピアその人です!

シェイクスピアは17世紀後半からは必ずしも人気のある作者でなくなり、公演パンフレットに作者として記載されないことさえありました。台詞が古くさくてわかりにくい、展開が脱線だらけと煙たがられ、台詞を当世風に直されたり、サブプロットを削って改変されたりすることは珍しくなかったようです。「二重の欺瞞」は、そのような時代にティボルドが持ち出したものであり、たぶん彼も改作者の列に加わっています。

それでも「二重の欺瞞」を構成するレイヤーの最深部に、シェイクスピアが味付けしたハムレット風味は残り続けていたのだと私は主張します。上掲書には、シェイクスピアの受容や評価の変遷について色々と面白い話題があり、一方で、あなたドン・キホーテを読んでいないでしょう、と言いたくなる論文もあって……私の方がひどいボロを出さないよう、探究はここらで終わりにしましょう。