楽しい読書

発見のある、面白い本に立て続けに出会い、読書の楽しみの大きさを今更ながら感じています。音楽という読書に匹敵する最上の楽しみを耳鳴りで失って随分経ちましたが、未だに、頭痛、眼痛で書いたり読んだりできない時、音楽を聞けないのが残念でたまりません。それでも読書に専念できる時間が増えたのは事実で、悪いことばかりではありません。

この数日、頭痛に悩まされる時間が減っていて、それも読書による幸福感を増しているようです。痛みが軽くなったのは、要するにお医者さんに出してもらった薬が効いたからです。初老にさしかかる頃からアレルギー体質が顕在化し、くしゃみと鼻水だけなら我慢できたのですが、くしゃみのたびに激痛が脳天を直撃するようになり、病院が苦手と言っていられなくなりました。

発見の第一は『セルバンテス模範小説集』(樋口正義訳、2012年、行路社)、「模範小説集」の邦訳最後発です。他の翻訳本も含めて書くつもりで、長くなりそうなため、こちらは次回以降に回します(前回予告した「「次回に続く」も先延ばしです)。第二は、松本敏治著『自閉症は津軽弁を話さない 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く』 (角川ソフィア文庫、2020年。原著は福村出版、2017年)。

後者は、『セルバンテス……』を図書館で見つけて借りようと立ち上がったところ、図書館カードを忘れて来たことが分かって愕然、すごすご退散する途中で寄った書店で、文庫の棚に表紙をこちらに向けて立っていました。購入して電車で読み始めたら、下車駅を乗り過ごしそうに――。

書店で見つけなければ購入していない本です。セルバンテスの次に『自閉症……』となると、節操のない読書ぶりに見えるかもれません。その見方は正しいのですが、書店で手に取るに際して内発的な興味があったのもまた事実です。しかし、ここら辺りも書くと長くなるので、省略。何が面白かったのかだけメモします。

著者は臨床を踏まえた障害児心理の研究者という職業柄もあるのか、持っている情報をわかりやすく提示してくれます。カジュアルだけれど適度に抑制を効かせた語り口は、啓蒙的な研究書にピッタリです。現場の心理士である妻の「自閉症の子は津軽弁を使わない」という、大学の研究者である著者にとって意想外の発言が起点となり、新しい知見や研究課題が次々と見出されていく過程は、冒険の旅に帯同させてもらっているようで、研究の楽しみと意義をいっぺんに味あわせてもらえました。

著者が、自閉スペクトラム症と方言という問題を提起すると、専門の研究者から様々な情報、意見、批判が寄せられます。さらに方言学などの他分野の専門家からの知見も取り入れ、自閉症の子が方言を使わないという事実と、その意味の解明を進めて行きます。中で紹介される、京都に住む六人家族の中で自閉症の子一人が共通語で喋っているという事例には驚かされました。

すると私の頭の中で、方言しかない時代、自閉症はあったんだろうか? と変な空想が始まってしまいました。ネットをちらと見た限りでは、自閉症の歴史を知ろうとしても、研究や臨床の歴史しか情報がなさそうです。残念。私の関心は、自閉症そのものより、他人との関係の中で言葉がどう使われるかという方により強いのです。

後半の三分の一ほどは、前半のようにワクワクしながら読むことができません。そこで著者は、学会では評価されにくい未踏の分野の研究で得られた知見を、先行研究を参照しつつ専門分野の中に位置づけていきます。著者は「プレジデント・オン・ライン」の記事(2020/10/06)において、学問分野の「主流から外れても目の前にある未知の謎に迫ろうとする研究の在り方にも興味をもっていただけたら」と述べています。

アカデミックな世界では、学会の外の研究はないのも同然の扱いですが、内部でもオーソライズされたテーマに属さないものは容易には認められない――それは臨床という現場と切り離せない分野でも同じだということを、著者の言葉から汲み取ることができます。こうした排他性は、学問の自由という喧伝されるスローガンからは見えにくいのですが……発見の後には、歓迎されるか否かは別として、成果をオーソリティーの側へ戻していく必要があるのでしょう。

私は知りませんでしたが、この本は文庫になるくらい評判が高く(当然です)、続編『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ』(福村出版、2020年)が既に出版されていました。『……リターンズ』は大手書店のサイトで検索をしても滅多に在庫がなく、横浜市立図書館だと予約24人待ち! でも、近在のブックファーストにはあるかもしれないと勘を働かせたら、あったのです。文庫版を発見したのも(別の)ブックファースト。ブックファーストはなかなかのもんだと前から思っていましたが、改めて偉い、と褒めたくなりました。でも、在庫検索はできるようにしてください。お願いします。