「愛」と翻訳の真実 模範小説集(3)

前回、セルバンテスの作品が古びないのは強靱な文体が備わっているから、と書きました。当然、強靱な文体とは何か、また同時代の他の作家との比較してどうかなどを論じるべきなのでしょうが、私の書き方では無駄に長くなります。ここでほんの一部分を引いてすませることにします。「模範小説集」中の屈指の作品、悪漢小説「リンコネーテとコルタディーリョ」の一場面です。

《丸ぽちゃ》と呼ばれる女が、盗賊一味の愛人から暴力を受けて苦しんでいると頭領に訴えます。すると、同様の目にあった訳知りの女が《丸ぽちゃ》に問いかけます。その男は「あんたを折檻し、ひどい目にあわせた後で、あんたのことを少しは愛撫しなかった?」《丸ぽちゃ》が答えます。「少しはですって? ……それはそれは何度も何度もしたわ……だいいち、さんざんあたいを打ちのめしておきながら、涙ぐんでさえいたんだから」(牛島信明訳)

DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)という悲しい「愛」のありようが、ここで時も場所も超えて表現されているわけですが、セルバンテスはその真実の姿を二人の女が交わす生き生きとした会話の形で描き出しています。このような軽快でありながら芯の強さと深みを感じさせる文章は、前回名前を出した「にせの伯母さん」や、私が読んだスペイン黄金世紀の戯曲のいくつかには見出せませんでした。閑話休題。これからが今日の本題です。

樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』の訳者による解説は、表面は穏やかなのに内にかなり辛辣な批判が込められています。その対象は牛島信明氏のようです。訳への批判ではありません。ドン・キホーテなど、その訳業は見事なもので、上記の訳文を読んだだけでもその一端はうかがい知れます。樋口氏が指摘したいのは、牛島氏によって日本での「模範小説集」の受容に歪みが生じたことのようです。

樋口氏は、牛島氏による小説集の作品評価について「今後、大いに議論されてしかるべきであろう」と述べます。異論がなければ、こうは書きません。また樋口氏の訳した四編が未訳で残された理由として、入手しやすい英訳ペーパーバックの掲載作と「かなりはっきりした相関関係」があると氏は指摘しています。ところで、私の見たところでは、牛島訳の解説に参考にしたと記された英訳文献以外、「模範小説集」の英訳ペーパーバックが刊行された気配はありません。

その上で樋口氏は、400年前のスペイン古典文学、特にセルバンテスの文章を理解する困難さに触れ、翻訳において英訳本がいかに役立つかを述べています。解説の最後には「先学の研究者たちの評価に左右されることなく、自分自身の目で作品を読むことによって、その作品の善し悪しを判断していただきたい」と記します。

牛島氏は自らの評価基準に従って小説集中から計八編を選んで訳出する一方、四編を未訳で残し、読者の選択の幅を狭めました。上記も、樋口氏による牛島氏批判と考えて間違いないようです。そもそも牛島氏の評価の元となる小説集作品の分類は、セルバンテスによる「イタリア文学の影響の……咀嚼そしゃく度合いを適用」(『セルバンテス短編集』訳者解説)するというもので、この方面に詳しい研究者でなければ分類の基準を把握するのは難しく、部外者はただ受け入れるしかない体のものです。

ドン・キホーテ以外にもセルバンテスの作品を読みたいという一般の読者を対象にするなら、面白さや、興味、関心のひきやすさを基準に選んでほしかったところです。上記の影響関係云々は解説で個々に触れればいいことと思えます。ただ牛島氏はドン・キホーテ訳文庫版出版の翌年、六十二歳という研究者として円熟期を迎えた年齢で亡くなっています。樋口氏の「批判」も、その点を考慮したものとなっていると私には思えました。

今は、「模範小説集」全作品を水声社版『セルバンテス全集』の一巻本で入手できます。が、1万円+税と高価です。ここで、上記のような一般読者向けの文庫本を編むとしたらという仮定で、僭越ながら部外者である私が、全体の半分の六作を選んでみます。次回、選んだ根拠などを述べます(タイトルは全集版によっています)――リンコネーテとコルタディーリョ、イギリスのスペイン娘、びいどろ学士、血の力、麗しき皿洗い娘、犬の対話。