ドン・キホーテよ、さらば? #70

 この章は少し長いです。大事なことなので、長さへの自制を若干緩めました。

世界文学史上の最重要の作家として、かつトルコとの海戦で片腕の自由を失った愛国者として、セルバンテスはスペインで聖人のような存在になった。このため、前回取り上げたアメリコ・カストロやF・M・ビリャヌエバらの所説は、スペインでは受け入れがたいものだったようだ。私は、ドン・キホーテの面白さの正体を追い求めて、作者セルバンテスに興味を持ち始めたところだったので、彼らの議論が正しいのかどうかも含めて関心を抱いた。

セルバンテスは、滅多なドラマの主人公ではかなわない起伏に富んだ人生を送った。ただ、人生の最後の十年ほどは執筆に専念し、妻や娘、姉や姪らの女性と同居し、割合穏やかな暮らしだったように見える。解説等には、その女性たちについて身持ちが悪く、男出入りが多かったと書かれている。ある時、家の前で刃傷沙汰が起こり、一家全員が牢に入れられて取り調べを受けたこともあった。何か腑に落ちない事件だが、特に追究しようとは思わなかった。

ところが、ビリャヌエバの論文を読んだところ、彼女らは「売春」を行っていたとあるではないか。売春といっても、比較的地位の高い層の男性を相手にするプロの愛人業のようなものだったらしいのだが、前述の刃傷沙汰も、一家が揃って取り調べを受けたという事態も、それが「家業」だったのであれば納得がいく。セルバンテスのアルジェリア虜囚の身代金は一家の女性たちが用意したとされ、そんな大金を女性の身で作れたというのは――。

さらに、セルバンテス家の女性たちが望ましい結婚相手を得られず、こうした稼業で生きることになったのも、セルバンテスが仕官の道に挫折したのと同じ原因、つまり血の純潔が重視される世界においてユダヤ系改宗者=コンベルソだったためという推察が可能になる。セルバンテスを神聖化する方向からは出て来ない議論だ。こうした異論は魅力的に見えるが、私は彼の「秘密」とドン・キホーテの面白さの謎を一直線に結びつけたいわけではない。

全くそうではない。だが、「セルバンテスという作者を導き入れることで、その面白さの意味を追究する」(#68)ためには、こうした議論に立ち入ることは不可欠に思える。ところが、この作業は困難なのだ。幾重にも壁が立ち塞がっている。

1)まずは時間。今ここで深入りしては、小説に取りかかる見通しがさらに立ちにくくなる。70歳の誕生日頃には、完成はしていないにしても、何らかの目途を持っていたいと願っている。ただ、こうして寄り道をしていると、小説を書くつらさから逃れられるという「メリット」がある。これは、なかなかの誘惑だ。

2)次はお金。セルバンテス全集が必要。全7巻セット定価7万円+税。アメリコ・カストロの訳本がやはり7冊くらいあるだろうか、高いものは、やはり1万円。古本でしか入手できないものもあるが、古いからといって安くなるわけではない。大学人が研究費や図書費で購入する前提の出版なのだ。貯金を崩せば買えない値段ではない。けれど――

3)カストロの本は、買ったとしても読むのは無理。「……外面的経験とか内面的空想からくるあらゆる資料に対して、正しく<第一印象>の内容を、予見計測しえないとはいえ、可能性のある本当らしさをもった意味や目的に向けて投影すべく……」といった文章が頻出する。一文、一文、解読することは不可能ではなさそうだが、全体がこうなので頭がついていかなくなる。読む必要があるのに読めない。これは大変に苦しい。

4)今更スペイン語を学習するのは道が遠すぎるし、そうしたとしても難解なカストロやセルバンテスを読めるようにはならない。そして、5)眼痛と頭痛。

カストロ解読に疲れ、後回しにしていたアウエルバッハ『ミメーシス』を再読することにしたドン・キホーテの章を読むためだが、その前章であるハムレットを中心に論じた「疲れた王子」に先に取りかかる。内容が小気味いいほどすんなり頭に入って来る。すっかり忘れていたが、この章の終わりではドン・キホーテを主にスペイン黄金世紀の文学を扱っている。次の章「魅せられたドゥルシネーア」は、スペイン語版出版の際に付け加えられたのだ。シェイクスピアのついでに扱えばすむ、とアウエルバッハは考えていたようだ。

黄金世紀のスペイン文学は「近代の現実の文学的征服の歴史の上であまり重要な意味を持っていない。シェイクスピア、いやダンテ、ラブレー、モンテーニュに比べてさえずっと小さな位置しか占めていない」そこには「激情や、葛藤はあっても、問題はない。神、王、名誉、愛、身分にふさわしい作法などというものは動かしがたく、疑いようのない確かな存在なのであって、悲劇の人物であれ喜劇の人物であれ、われわれの答ええないような難問を提起することはない」

そして、ハムレットとドン・キホーテとを比較して「単なる迷いにすぎず、容易に理解でき、そして結局は癒すことのできるドン・キホーテの狂気と、ハムレットの根本的で、多義的な、決して癒すことのできない『世の中に対する不信』」と分析する。

ただし、アウエルバッハは次章でドン・キホーテの比類のない独自性について語っている。「日常の現実をこれほど広くあまねく、多層的に、それでいて無批判的に、そして無問題的に描こうとしたものはヨーロッパにその後ない。やろうと思ったところで、いつどこでそんなことが可能でありえたか、筆者には想像することすらできない」

再読して、どれほど深く『ミメーシス』に影響されていたか――というとおこがましいので「魅せられて」いたかを再認識した、と書こう。このブログは、あちこちで稚拙なパクリになっていると思う。歴史も社会も作家も全て視野に入れつつ、あくまで作品を内部から読み解いていくその道筋の確かさ。

しかし、再びおこがましいのだが、ドン・キホーテのユニークさに対するアウエルバッハの見解は、作品の力の根源である核心部に辿りつけていないように感じられる。これまで「面白さ」を探り続けて来て、まだ捉え切れない何かがセルバンテスのドン・キホーテにはある。所見からすると、アウエルバッハにそれが見えていたようには思えないのだ。しかし、私の今の状況では、この袋小路から先に行く方途がない。とりあえず、ドン・キホーテよ、さらば、と言うしかなさそうだ。この「さらば」が、「再見」であることを祈りつつ。

E・アウエルバッハ『ミメーシス』篠田一士・川村二郎訳、ちくま学芸文庫、1994年