ドン・キホーテに再見?

さらば、と挨拶したのに、すぐに引き返して来ました。訂正すべき事項が見つかったのです。12月5日の投稿に「模範小説集」の邦訳刊本リストを掲載した際「この情報は、私の知る限り、これまで整理された形で示されたことがありません」と記しましたが、ありました。集英社文庫の「ポケットマスターピース」シリーズの『セルバンテス』の巻、三倉康博氏による「著作目録」で提示されていたのです。

同書には「模範小説集」から吉田彩子氏訳による3編が掲載されているので、これを足した改訂版リストを下に載せることにします。そんなことを考えていたら、私が勝手に6編を選んだ仮想文庫版『模範小説集』の帯につけるキャッチフレーズを思いつきました。「ドン・キホーテより面白い!

冒涜的な気もするので、「ドン・キホーテよりも面白い!?」とすべきか……でも、満更嘘でもありません。面白さの分かりにくいドン・キホーテより気に入る人がいても、不思議ではないと思います。ただし、ドン・キホーテを書かなかったら、「模範小説集」の作者の名を知る日本人はスペイン文学者以外いなかっただろうことは再確認しておきます。

上記『セルバンテス』を読んでいたら、もう一つ「訂正」をしたくなりました。三倉氏による「主要文献案内」に、前回引いたアウエルバッハ『ミメーシス』の章タイトルは誤訳だと指摘されていたのです。「魅せられたドゥルシネーア」ではなく、「魔法にかけられたドゥルシネーア」だと。原文を見なくても「魔法にかけられた」が正しいと判ります。こうでなくては意味が通りません。なぜ「魅せられた」だったのか不思議なくらい。

となると、私も『ミメーシス』に「魅せられた」のではなく、「魔法にかけられた」と訂正しなくてはなりません。確かに、私はアウエルバッハの魔法にかかったようでもあります。三倉氏はごく簡単に内容を紹介しているだけですが、アウエルバッハの見解に不満があったとしても不思議ではありません。前回見たように、アウエルバッハは、ドン・キホーテを含めてスペイン黄金世紀の文学を重視していないのです。

アウエルバッハは、ドン・キホーテに登場人物の「生々しい現実の姿」「生きた日常生活」が描かれたことを評価する一方、キホーテの狂気が作中で常に滑稽さとして回収される単調さを作品の限界とみなしています。彼の狂気は、ヨーロッパ的な問題と悲劇を「何ひとつあばきださない。しっかりと根をおろした現実に衝突して狂気が滑稽になるドラマ、それがこの書物全体の内容である」(訳者などは前回参照)

しかし、アメリコ・カストロの議論を参照する時、セルバンテスが「無批判的に、そして無問題的に」そうしたのだとは思えなくなります。その正体が何なのか、私にはまだ明らかではありませんが、アウエルバッハの指摘はむしろ彼自身の読みの限界を示しているようにも見えます。アウエルバッハは、「ドゥルシネーア」の章中で、「スペインの碩学」カストロに批判的に言及しています。

彼は、カストロがセルバンテス像を無学な天才からエラスムス派の教養人へと転換させたことを知っていたでしょう。しかし、カストロが『歴史の中のスペイン』を1948年に刊行した後に展開する議論、セルバンテスはユダヤ系改宗者「コンベルソ」の家系の出身であって、といった問題提起は視野に入っていなかったはずです(『ミメーシス』スペイン語版は1949年刊)。作者の素性云々はアウエルバッハの方法ではありませんが、こうした視点を取り込んだ上でどんな議論をしたか見てみたかった気がします。

<セルバンテス「模範小説集」邦訳各版の収録作品>改訂版
牛島信明訳『セルバンテス短編集』岩波文庫、1988年:やきもちやきのエストレマドゥーラ人、ガラスの学士、麗しき皿洗い娘(他に「ドン・キホーテ」から「愚かな物好きの話」を独立の短編として収録)。
牛島信明訳『模範小説集』国書刊行会、1993年:ジプシー娘、リンコネーテとコルタディーリョ、ガラスの学士、血の呼び声、やきもちやきのエストレマドゥーラ人、麗しき皿洗い娘、偽装結婚、犬の会話。
樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』行路社、2012年:コルネリア夫人、二人の乙女、イギリスのスペイン娘、寛大な恋人。
吉田彩子訳「模範小説集」『ポケットマスターピース13 セルバンテス』野谷文昭編、集英社文庫、2016年:美しいヒターノの娘(他訳の「ジプシー娘」)、ビードロ学士、嫉妬深いエストレマドゥーラ男
樋口正義他訳「模範小説集」『セルバンテス全集』第4巻、水声社、2017年:ジプシー娘、寛大な恋人、リンコネーテとコルタディーリョ、イギリスのスペイン娘、びいどろ学士、血の力、嫉妬深いエストレマドゥーラの男、麗しき皿洗い娘、二人の乙女、コルネリア夫人、偽りの結婚、犬の対話。付録として、にせの伯母さん―一五七五年にサラマンカで起きた真実の物語を収録。