日別アーカイブ: 2021年9月3日

常陸国風土記、「作者」と民衆  #81

 民衆の姿を描いた万葉歌人と言えば、一も二もなく山上憶良だろう。そもそも無名の防人や相聞の主観による歌を除けば、憶良の作以外、万葉集の中で庶民が描かれることは少ない(高橋虫麻呂は例外の一人)。彼の代表作「貧窮問答歌」に漢文学の影響がみられることは、国語の教材として教えられることは滅多にないものの、研究者にはよく知られており、実は斎藤茂吉『万葉秀歌』(#74)にも指摘がある。

 万葉集自体、漢文学の影響が大きい。国文学者の小島憲之氏は、万葉集を代表する歌人柿本人麻呂は「ほかの歌人にくらべてより多く漢籍をひもといた事は疑がない」とし、憶良は「漢詩文が自らこなせた事は萬葉人の中でも上位にある」と記している。憶良が冠位のないまま遣唐使の少録(記録係補佐)に選ばれたのは抜群の「語学力」の故だっただろうし、二年間彼の地に滞在してさらに磨きがかかったはずだ。渡唐時に42歳。筑前守として九州に赴き、太宰帥だざいのそち大伴旅人らと交わって万葉集に収められる歌の大部分を作ったのは六十代半ば以降のことである。

 春日蔵首老kかすがのくらのおびとおゆは、万葉歌人としては憶良と比べられないが、漢学の素養が官界での栄達を導いたのは相似だ。前回述べた通り老は新羅留学の可能性があり、中年になって政府の官吏に取り立てられて従五位下の貴族に列した。それが憶良と同じ和銅六年(714年)正月だったのは偶然の一致なのかどうか……栄達にあずかるまでの経歴が殆ど知られていないのも共通で、両者とも貴族の周辺にありつつも画然と区別される家系の出身だったようだ。そんな二人が、当時としては例外的に民衆の姿を文章にしたのだった。 続きを読む