日別アーカイブ: 2021年9月7日

常陸国風土記の「作者」、結論  #82

Wikipediaより*

 万葉集を読んで感じられる春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆの歌の特質とは、どのようなものだろうか? その多くが個の性質を帯びていることだ、と私は考える。万葉の時代の「個」とは……という面倒な問題には立ち入らず、作品にあたろう。第1巻の56番歌「河上かわのへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢こせ春野はるの」は、繰り返しのリズムが軽やかで、老を有名にするほどではないにしろ、愛されているかわいらしい歌だ。坂門人足さかとのひとたりの「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を」は少し前の54番に置かれているものの、こちらは派生歌だ。

 使われている言葉は8割方同じなのに、両者には明確な違いがある。56の老は川辺の椿を一人眺めている。一人だから飽きるまでいつまでも見ていられる。54の歌は、岩波文庫2013年版の注釈によれば、秋の巨勢野を行く同行者に、椿が満開だった巨勢の春野を偲んでみましょう、と呼びかけているのだ。歌は共同体的なものから生まれ、やがて文字に記録されて万葉集になったわけで、野遊びの座興のような人足の歌は、こうした成り立ちを考えれば正統的とも言える。

 54について、単に、巨勢の春の野が思い出されるなあ、とする解釈もある。この場合も人足は一人ではない。私はあの「つらつら椿」歌を参照していますよ、と読む人に目配せしているのだ。成功して第1巻の54番という早い掲載順となった。うがった解釈をすれば、老のオリジナルは満開の椿に一人没入して眺め入る姿が、万葉の時代の人々には見慣れない、落ち着かないものだったので、派生歌を先に置いたのかもしれない。老の他の歌からも、こうした個的な性質は読み取れる。以下、歌自体は#78を参照のこと。 続きを読む