万葉集を読んで感じられる春日蔵首老の歌の特質とは、どのようなものだろうか? その多くが個の性質を帯びていることだ、と私は考える。万葉の時代の「個」とは……という面倒な問題には立ち入らず、作品にあたろう。第1巻の56番歌「河上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は」は、繰り返しのリズムが軽やかで、老を有名にするほどではないにしろ、愛されているかわいらしい歌だ。坂門人足の「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を」は少し前の54番に置かれているものの、こちらは派生歌だ。
使われている言葉は8割方同じなのに、両者には明確な違いがある。56の老は川辺の椿を一人眺めている。一人だから飽きるまでいつまでも見ていられる。54の歌は、岩波文庫2013年版の注釈によれば、秋の巨勢野を行く同行者に、椿が満開だった巨勢の春野を偲んでみましょう、と呼びかけているのだ。歌は共同体的なものから生まれ、やがて文字に記録されて万葉集になったわけで、野遊びの座興のような人足の歌は、こうした成り立ちを考えれば正統的とも言える。
54について、単に、巨勢の春の野が思い出されるなあ、とする解釈もある。この場合も人足は一人ではない。私はあの「つらつら椿」歌を参照していますよ、と読む人に目配せしているのだ。成功して第1巻の54番という早い掲載順となった。うがった解釈をすれば、老のオリジナルは満開の椿に一人没入して眺め入る姿が、万葉の時代の人々には見慣れない、落ち着かないものだったので、派生歌を先に置いたのかもしれない。老の他の歌からも、こうした個的な性質は読み取れる。以下、歌自体は#78を参照のこと。 続きを読む