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風土記の神様は手強い?

2度目のワクチン接種で発熱する気満々だったものの、腕の痛みすら1度目より軽く、副反応が出にくいという老人男性の通例通りに……ちょっとガッカリ、なんて言っては不謹慎でしょうか。自衛隊さん、ありがとう。一方、常陸国風土記関係では、自戒していたのに「作者」をめぐる文献の泥沼に片足だが突っこんでしまい、ちょっと書きにくい感じになってしまいました。

……と、この後を続けようとしたら、なぜか途中でうまく進まなくなり、何度書き直しても満足のいく出来になりません。やむを得ず中断することに決めました。材料も、構想も、ちょうどいい塩梅に整っていて書けないはずがないのに、うまく行かないのです。シェイクスピアの時には大明神が自発的に降りて来てくれて、私の思惑を超えた「作品」ができたのですが……。

風土記の神様は手強いようです。前にも、こんなことがあったなあ、と思い出したのは、『アレキサンダー大王東征記』についてどうしてもうまく書けず、とうとう断念したことでした。ただ、『東征記』はできれば書いておきたいくらいだったのに対し、風土記はこのブログの大事なテーマの一つですから、諦めるわけにいきません。深入りせずに書こうなどという半端な姿勢が良くなかったのかもしれません。これから、可能な限りでですが文献を読み、風土記の続きは7月最終週にアップすることを目指したいと思います。

計画変更、記事を削除

5月14日にアップした「二つの火の鳥と風土記(1)」の記事を削除しました。(1)に続けて(2)を書くつもりだったのですが、いくつかの理由があってすぐには取りかかれませんでした。すると、この間にブログと直接には関係のない事情から頭の中で異変が生じ、そのせいで内部の配線がずれたのか、(2)を書こうという意欲が減退してしまいました。

それだけでなく、ブログに新しい記事を書くこともやや難しい状態になっています。というわけで、(1)があっても(2)を書かないのでは意味がないので、上記記事を削除しました。また、しばらくブログの更新をお休みにします。現在のところ、6月初め~6月上旬に再開しようという心づもりです。

風土記については、上記記事のようなゆるい形ではなく、「その本はなぜ面白いのか?」の続き#71として書こうと考えています。#51などで予告した風土記の補遺に、なるべく直線で近づこういうわけです。ただし、次回の記事は、「再び恋に落ちたシェイクスピア」関連になるでしょう。

続・アカデミアの空白

歴史学や経営史学において、個々の人間像の探るような人物研究は過去に属するもののようです。さりながら、歴史学者が、専門とする時代の重要な人物について世間の人より知識が少ないということはまずないでしょう。過去の蓄積を摂取しているからです。ところが、岩崎彌太郎の場合、彌太郎や三菱に直接かかわる分野の専門家を除けば、私の新書の内容以上の知識を持つ学者はほぼいないはずです。

そう断言できるのは、『岩崎彌太郎 会社の創造』以外、史料に裏打ちされた「伝記」がないからです(私の本の後に出たものは未見)。専門家で書く材料を持つ人はいたのでしょうが、誰も手をつけませんでした。ライバル視される渋沢栄一の方は汗牛充棟の有様なのに。会社の歴史や会社員という存在の探究においても、私の『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』に匹敵する論が、それ以前にあったようには見えません(ただし関連分野の、特に調査的な研究には、上掲書は多くを負っています)。

両書は、前回述べたアカデミアの空白の存在を指し示しています。私の関心領域は彌太郎からシェイクスピアまで出鱈目のようですが、空白域の探検という点で共通してもいます。ただし、空白域を意図的に捜したことは一度もなく、関心を抱いて探究をする内に各所で未踏の場所に至ったのです。偏頗も度が過ぎています。ただし、興味が満たされれば「素人」の分を超えて何か言ったりはしません。それにしても、空白域はなぜ様々な学問分野に存在するのでしょうか? 続きを読む

アカデミアの空白

メインPCのWindows10への更新は、大きなトラブルなしにすみました。その昔、PCの更新作業というと、私のような一般ユーザーには大変な関門で、神経をすり減らしつつ、多大な時間を費やしたものでした。今やOSの更新自体は何ということもなく、ただ便利な機能が使えなくなったり、ちょっとした操作で戸惑わせられたりして、テック企業の都合に振り回されることを苛立たしく感じるくらいですみます。

閑話休題。以下、「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」を書く間に思いめぐらしたことを記します(シェイクスピアから取りあえず離れます)。上記のエッセイもそうですが、私はアカデミズムの端っこをかすめる「研究もどき」を何度か敢行し、新しい知見を得て発表しています。なぜ、学者でない私に、そのような「発見」ができたのでしょうか?

研究分野に参入し、成果をあげようと意図したわけではありません。自ら抱いた疑問を解決しようとジタバタしていたら、アカデミアの近傍にたどり着いたというのが真相です。最初は、会社員の存在の意味について考える内、その歴史を知りたくなったのでした。適当な解説書がなかったので(このこと自体が驚きでしたが)、自分で探究をするうち深みにはまりました。 続きを読む

続・再び恋に落ちたシェイクスピア

キメラ的な『再び恋に落ちたシェイクスピア』、ほぼ完成しました。何という徒労! 2週間かけて、400字詰め換算96枚。短めの中編小説一本分(シナリオの第1稿のような形で、ややラフに書かれています)。前回記したように、使い途は恐らくありません。でも、途中でやめようとは一度も思いませんでした。暇の産物には違いないのですが、この2週間、何ものかに追い立てられているようでした。

何ものか。ミューズみたいな立派な神様ではなさそうです。ジーニーくらいか? シェイクスピア大明神ではなおさら畏れ多く。『再び恋に……』に登場するのは、映画の登場人物であったところのシェイクスピアであり、だからこそ実在の人物の名を勝手に使っても「良心の呵責」など感じなかったのでしょう。

執筆の合間には、徒労感に浸されて嫌になることもありました。しかし、いざPCに向かうと書く快楽に突き動かされるようで、思い煩うことはなかったのです。主な材料は、自家製カルデニオ-ハムレット論(→PDF直リン)、『二重の欺瞞』、『恋に落ちたシェイクスピア』。この三者をどう組み合わせるか全くのノープランでした。一行のメモすらなし。しかし取りかかれば次々に展開や場面、人物が勝手に登場して、執筆が滞ることはありませんでした。生来、筆の遅い性なのに、なぜ一気呵成に書けたのでしょうか? 続きを読む

レワニワ閲覧室に新蔵書

セルバンテス/シェイクスピア

レワニワ図書館の閲覧室に、新蔵書『シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?』を配架しました。「三田文学」2021年冬季号掲載の同題のエッセイを一部手直しし、特別付録として「カルデニオ-ハムレット化計画」を付け加えたものです。本文の概要は、前回の当ブログの他、「レワニワ瓦版」の2月15日付けの記事中にも載せてあります(改行を除けば同じものです)。

シェイクスピアの<二重の欺瞞-カルデニオの物語>問題についてはとりあえず終了、今後は英訳版を掲載する予定があるのみです。ただし、余録として勝手に妄想した『恋に落ちたシェイクスピア』の続編のプロット(再び恋に落ちたシェイクスピア?)を、そのうちに投稿しようかと考えています。

ドン・キホーテとセルバンテスについては、とりあえず休止とします。再開するとしても、恐らく何年か先になるでしょう。読んだ本については、これからも書きたいことが見つかった時に書きます。予告してあった風土記の補遺も必ずやるつもりです。ただ、嬉しいことに、先日、2月12日に突然小説を書く目途が立ったので、すぐに執筆に取りかかることはないものの、こちらに徐々に重点を移していこうと思います。いや、驚きました……小説については、また改めて記します。

補遺は断念、英語版は進行中

The magic hour ?

スマホのGoogle Photoが、上の写真を表紙にThe magic hourと題する10枚ほどのスライドショーを勝手に作成していました。光の加減で空と雲がきれいに見えるタイミングを狙ってやたらと写真を撮っていたのは確かですが、こんなお節介を頼んだ覚えはありません。なのに、何が選ばれたのか気になって全部見てしまいました。巨大IT企業に脳内まで支配される未来はそう遠くないと感じました。怖いことです。

閑話休題。「三田文学」に掲載したエッセイ「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」について、補遺を書きたい気持ちがありました。送稿した直後は、原稿を短くするために削った箇所が惜しくてやる気満々だったのですが、先送りする内に熱意が薄れました。時間の経過だけが原因ではありません。

上記エッセイを書く前から、この英語版を作ろうと思って、その方策を考えていました。私は英訳ができないので、とある人に英訳者の紹介をお願いしたところ、快く引き受けてくれました。おかげで英訳者の目途が立ち、既に依頼をすませて英語版用に修正した原稿を渡してあります。3月末に翻訳ができる予定です。 続きを読む

リアルで古風な物語群 模範小説集(4)

前回、樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』解説の控えめなようで実は厳しい牛島信明氏批判にやや深入りしました。その余録で、牛島氏の提唱する小説集作品の分類がどうにも頭に入って来なかった理由を自分なりに理解し、記すことができたのは思わぬ収穫でした。もう少し続けます。牛島氏は岩波文庫版『セルバンテス短編集』(1988年)を編むに際し、自らのセルバンテス観に従って作品を選び、解説を書いています。一見当然のようですが、問題がありました。

この小説集は、文庫版出版後も「名ばかり聞こえてほとんど読まれることのない」状態が続きます。恐らく現在も。(1)で記したように、一般読者にとって牛島氏編の短編集は「模範小説集」に入門する際の躓きの石になり得ます。そもそも、ドン・キホーテから一部を抜き取って短編集に収めたこと自体、「模範小説集」の作品の価値が低いのではと邪推させる誘因になったはずです。私はそう思った覚えがあります。

解説で、「リンコネーテとコルタディーリョ」は過大評価されて来たと牛島氏は述べます。しかし翻訳がないので、日本人の読者は牛島氏の説の当否を判断できず、ただ拝聴するしかありません。氏はまた、「セルバンテス独特のさりげないユーモアとか、きびきびとした会話」については一読して瞭然だから、と触れません。ユーモアや会話の妙は作品の魅力となる一方、時代の変化を被りやすい性質を持ちます。出版当時400年前の作品の事実上唯一の翻訳だった刊本の解説としては不親切に思えます。 続きを読む