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ヘロドトスの耳を折る  #36

ヘロドトス『歴史』岩波文庫版(松平千秋訳)は上中下三巻本で、それぞれかなり分厚い。通読するのはたやすくはないが、骨が折れるというほどでもない。なにしろ「面白い」からだ。面白さは、第一には好奇心を刺激するエキゾティズムによるもので、「ドン・キホーテ」のように何が面白いのかと悩む必要はない。

好奇心について、アウグスティヌス『告白』から引用しよう。好奇心は「欲望の病」だとアウグスティヌスは言う。彼がこの罪から逃れるには「罠と危険に満ちたこの巨大な森の中で……多くのものを心から切りすてて追い払」う必要があったのだ、と(山田晶訳)。信仰者にとって好奇心は病であり、罪であると否定しつつ、アウグスティヌス自身、好奇心の塊であったことを告白しているのである。

ヘロドトスもまた、「好奇心という病」の虜だった。訳者解説によれば、ヘロドトスはバビロン、リビア、ナイル川上流のアスワン、クリミア半島からウクライナ南部にまで足をのばしている。交通手段の発達した現代でもなかなか骨の折れる旅先……と書こうとして突然気づいた。ここにあげた場所の殆どは、今も訪れるのが困難ではないか。

ヘロドトスが「歴史」において取り扱ったのは、現代に至るまで「世界史」の現場であり続けた地域だったのだ。根が深いなあ。それがどういうことなのか、ここでは考えないでおくが、あきれるほどの長い因縁の場所だと改めて思い知った。ともあれ、強い好奇心が、ヘロドトスをこうした場所へと誘ったのに違いない。一方、出不精の私は近場やネットで視線をキョロキョロさせているだけだが、好奇心の虜であることは同じなのである。

ヘロドトス「歴史」の本文に戻ろう。読み終えてから二年以上経っていて、細かな内容はほぼ記憶から消えている。本文をざっと振り返ってみたら、耳折りをしたページは、食人や残酷な刑罰、珍しい風習にかなり偏っていることが判明した……「耳折り」は私の造語(誤用?)のようだが、わかりますよね? 普段はまず耳折りをしないのだが、「歴史」を読んでいた時期はそうしたかったらしい。理由は不明。

アケメネス朝ペルシャ皇帝カンビュセスの軍の「兵士たちは地上に草の生えている限りは、これを食って生き延びたが、いよいよ砂漠地帯に入ると、彼らの内に戦慄すべき行為に出る者が現れた。十人一組で籤を引き、籤に当たった者を一人ずつ食ったのである」

「バビロンの男は妻と交わった後は、必ず香を焚いてその傍に坐り、妻も向かい合って同じようにする。夜が明けると夫婦とも体を洗う。体を洗う前はどんな容器にも触れないことになっているのである。なおアラビア人もこれと同じことをする」

「イッセドネス人は……父親が死亡すると、親戚縁者がことごとく家畜を携えて集まり、これを屠って肉を刻み、さらにその家の主人の死亡した父親の肉も刻んで混ぜ合せ、これを料理にして宴会を催すのである」

「ペルシア軍は……土着民の男児女児おのおの九人をこの地で生きながら土中に埋めた……クセルクセスの妃アメストリスも年老いてから、名門のペルシア人の子供十四人をわが身のために生き埋めにし、地下にあると伝えられている神に謝意を表したということであるから、人間を生き埋めにするのはペルシア人の風習なのだろう」

クセルクセス側近の宦官ヘルティモスが、かつて自分を去勢したバニオニスに復讐する。バニオニスは「わが子四人の陰部をわが手で切断することを強制された。彼が止むことなくそのとおりにした後、こんどは子供たちが強制されて父を去勢したのであった」

上記は耳折り箇所から引き写しやすい分量のものを選んだだけで、選択に特段の意味はない。が、私の言う「面白さ」の一端を感じてもらえると思う。元々スプラッタやホラーを受け付けない質で、映像では全く駄目だし、文字で読むのも嫌いなのだが、遠い過去の記録となると、なぜだか関心が湧く。その昔、中央公論社『日本の歴史』で読んだ武烈天皇の残虐な所業は、子供心に忘れ難い印象を残し、先般「日本書紀」を読んで「再会」した時には懐かしい気さえしたものだ。

しかし、好奇心を刺激するエキゾティズムは、私の感じたへロドトスの魅力の本体ではない。外つ国を訪れ、その国が本当に好きになるとしたら、好奇心を駆り立てる観光名所=アトラクションが気に入るだけでは不十分で、その国に特有のエートスに惹きつけられる必要がある。私は、ヘロドトス「歴史」という書物に漂うエートスに惹きつけられたのだ。

セルバンテスの意図? 場面転換前の幕間  #34

さて、またも、またも長い中断期間があり、その間、注文した筆記具用PCが、発注時の納品の目安から1ヶ月以上遅く届いた代わりに、手配したものから一段上等な機種に変身するという椿事に遭遇した。それはまあそれとして。前回結末部の言を早速裏切ることになるのだが、「ドン・キホーテ」をめぐる考察において、一つ書き忘れたことがあるのでメモしておきたい。

キホーテは、作者セルバンテスによって虚仮にされる主人公であり、そのいたぶり方が徹底していることで――ナボコフは「残酷」と表現する――騎士(と従者のコンビ)は文学史上無類の登場人物になった。厳しくあたるほど、騎士道の夢を捨てないキホーテがより崇高な存在に感じられるようになる、と先に書いた。いま私が気にしているのは、この逆説的な仕組みを作者が意図的に作り上げたのかどうかということだ。作者の第一の目的が、主従を困らせて読者を興がらせることだったのは明白だが、その効用が結局はキホーテ本人を輝かせることになると意識していたのかどうか。

今、この問いに対する結論を出すつもりはない。なぜ面白いのかを考える上で、作者の意図は原則的に重要ではないからだ。キホーテの騎士道物語に関するとてつもない知識、正気の時に垣間見せる底知れない善意や、行き会う人に与える知恵に満ちた助言や教訓などは、作者のキホーテに対する肩入れを仄めかすもののように見える。しかし、殆どの場合、こうした騎士のポジティヴな側面は、その後に訪れる狂気や、主従が被る仕打ち、キホーテ自身の立派とは言えない言行などによって、かえって滑稽さや残酷さを際立たせることになるのである。

また、キホーテが、作者が初めに想定していたより巨大な容量を持つ登場人物となったことは確かだとしても、それは作者がこうした逆説を企図していたことも、逆に企図していなかったことも証明しない。こうなると、セルバンテスの発想の源になった「ロマンセの幕間劇」の主人公がどのように描かれていたのか知りたくなるのだが、ここではあくまでメモのみにして、深入りしないことにしよう。

「ドン・キホーテ」について書いている間、また特にその中断期間中、何冊もの「面白い本」に出会った。ほぼ時を同じくして、絶え間ない耳鳴り(「脳鳴り」と言われる種類のもの)につきまとわれるようになり、音楽を聞くという人生における最大と言ってもいい楽しみの大部分を失ったのだが、以来、面白い本に出会う確率が高まったようでもある。脳内の「補償」作用によって、本を読んだ時に幸福を感じるセンサーの感度が高まったのかもしれない。

ホメロス『イリアス』、『オデュッセイア』を読み終えた(どちらも松平千秋訳、岩波文庫)。傲慢な書き方をしてしまうが、前者はまあまあ面白く、後者は初めのうち「イリアス」より退屈だと思っていたのに、その後とても面白くなった。残酷なお伽話。サイレンの誘惑がほんの数行であっさり終わって呆然としたのも、良い思い出だ。

キケロー『友情について』(中務徹郎訳、岩波文庫)は、鋭く軽やかであるのと同時に重みのある語り口が印象的だった。名言名句が要所要所に。「幸運の女神はご自身目が見えないばかりでなく、取りついた人も大抵目が見えなくされてしまう」「幸運に恵まれた愚か者ほど耐えがたいものはない」カトーを引いて「ある人にとっては、優しそうな友人より辛辣な敵の方が役に立つ」喜劇作家の言葉を引いて「世辞は友を、真実は憎しみを生む」「過ちを犯したことに心を痛めるのではなく、叱られたことを苦にする」

一番の驚きはアウグスティヌス『告白』だった。いやはや、こんなに面白いとは。期待していたモンテーニュ『エセー』がただただ読みづらく、それに続いて紐解いたので余計にそう感じられたのかもしれない。『告白』は、昔からなぜだか読みたくない本だったので、初めて読んでの驚きがさらに大きくなったようだ。ちなみに、「読みたくない」という予感めいたものは当たっていて、この本、面白いのは確かだけれど、著者ともども、好きにはなれそうにない。さらに、読んでいる山田晶訳中公文庫版で言えば、Ⅱ巻に至って「好きになれない」が「嫌い」に昇格してしまった。面白さもそれまでの半分になったが、それでも十分楽しめる。『告白』は、いずれ必ず取り上げる。次回から、いよいよ(?)ヘロドトス。