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「恋に落ちたシェイクスピア」

カルデニオとシェイクスピアをめぐる読書を続けている一環で、タイトルの映画をAmazon Prime Videoで見ました。とんでもなく良くできた作品でした。ジョン・マッデン監督。1998年制作、翌年日本公開。シェイクスピアは変わらない敬愛の対象なので、見ていたっていいはずなのに初見でした。「濁った激流にかかる橋」の連作を書きつつ、学科を作るのに右往左往していて、気持ちに余裕がなかったのでしょう。

全くアカデミー賞を取るのにふさわしい。制作陣の知的水準の高さがエンタテインメントとして完璧なものを生み出す礎になっており、そこがとてもイギリスっぽい感じがします(私の書き方は何だかバカっぽい……)。スティーヴン・グリーンブラット(#64参照)は、自作のシェイクスピア伝記のアイデアを、同作の脚本家の片割れマーク・ノーマンと話をしていて得たと記しています。

ロミオとジュリエットの嘘のメイキングとも言える内容で、モンタギュー家とキャピュレット家の戦いの場面の稽古中に、ライバルの劇場主たちの襲撃を受けて本当の剣戟になるシーンには大笑いしつつ、何といううまいやり口だと驚嘆しました。その他、いくらでも褒められます。でも、不満がないわけじゃありません。 続きを読む

トリュフの行方――カルデニオ問題、補遺の補遺

カルデニオ-ハムレット問題はブログでは終わったはずでしたが、2016年刊の本を追加で購入したら(本文124ページなのに送料・税金込み約4000円!)示唆に富んでいたので、メモを残します。Deborah C.Payne(編著)、Revisiting Shakespeare’s Lost Play : Cardenio/Double Falsehood in the Eighteenth Century Palgrave Macmillan。

巻頭に置かれたロバート・D・ヒューム教授(ペンシルベニア州立大学)の「『カルデニオ』/『二重の欺瞞』問題の評価assesment」では、梗概に「二重の欺瞞」に「混じり気なしのシェイクスピアは殆どあるい全く含まれない」とあって、私の説にとってまずそうだと危惧しましたが、全文を読んだら大丈夫でした。私のカルデニオ-ハムレット説では、純粋無垢のシェイクスピアの証拠がなくても困りません。あれば素晴らしいのですが。

一方でティボルド偽作説は明確に否定しており、ティボルドが17世紀後半の何らか原稿を元に作業したのは事実だろうと記しています。同書の別の著者は、シェイクスピア作かどうかはともかく、ジェイムス王朝時代(17世紀初頭)の劇風が残存していると述べます。こちらの意見は少々困ります。シェイクスピアが作者(の一人)でないと、イギリスとスペインの二人の文学的巨人の出会いが実現しません。 続きを読む

ロシアのハムレット、「青白い炎」の翻訳

オリジナルのミニと翻訳(超訳?)されたミニ

さすがに夢ではありませんでした。「ハムレットとドン・キホーテ」の回に「ロシアでのハムレットの最初期の翻訳では、ハムレットとオフェリアが結ばれるハッピーエンドに改変され……訳者は劇作者で」とした記述の元が見つけられなくなり、夢か妄想かと心配になったのでした。「元」は不明のままですが、ロシアのハムレットについて根拠となる論文を発見しました。

柳富子氏によれば、ロシアでハムレットを最初に紹介したのは18世紀の悲劇作家スマローロフでした。しかし内容は大きく変更されていて、ハムレットはオフィーリアと共に最後まで死にません。柳氏の論文には記述がないのですが、岡部匠一氏は、二人が最後に「幸せにwedded happily結婚した」と書いています(英語論文)。

スマローロフの「ハムレット」はシェイクスピア作のクレジット抜きで発表され、原作者を見破られると、一部が似ているだけだと模倣を否定したそうです。柳氏は劇の概略を記しています。ハムレットは内省をせず、周囲の状況で復讐を先延ばしにするようです。結末では、反逆した娘オフェリアをその父が殺す寸前、ハムレットらが処刑場になだれ込み、父を成敗しようとすると、娘は父の命を取るなら私を殺してからにして、と……。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(5)結論  #66

シェイクスピアは、ドン・キホーテのカルデニオを「二重の欺瞞」のフリオに取り替えたりしない。ハムレットの作者の目に、復讐の企図と実行の合間から逃げ出して内省する半狂人と、直情的に修羅場に躍り出てしまう考えのない若者が同じに見えるはずはないのだ。近代以前のヨーロッパ人が内省をしなかったわけではないだろう。内省という精神的な営為がまだ認識されていなかったのだ。

そうした人々にとってカルデニオは理解し難く、フリオは受け入れられやすい。その上、単純な青年は劇をスペクタクル化する。セルバンテスの原作にしたがって、緊迫した結婚式の場面が活劇でなく主人公の独白に続くとしたら、観衆は喜ばないだろう。絶頂期のシェイクスピアがハムレットのような素晴らしい独白を書くのでなければ。この改変は、誰が行ったのか?

前回述べたように、「二重の欺瞞」のプレゼンターであるルイス・ティボルトによれば、1613年初演の「カルデニオの物語」は17世紀後半に改変されている。タイトルと登場人物の名前の変更という、もし偽作者であれば下策と思えることをティボルドがしたのか否か考えるなら(普通はしない)、本当にその時期に改変が行われ、ティボルドが引き継いだ可能性は残る。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(4)   #65

シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだのだろうか? 考えられていい問題だと思うが、私が知り得た範囲では、そうした研究が進んでいる気配はない。英文学とスペイン文学の間の溝に落っこちてしまったのかもしれない。この課題を検討するために、まずは「カルデニオの物語」当時のシェイクスピアの状況を簡単にみておこう。

劇作では、1610年頃に書かれた「テンペスト」が最後の単独作品で、後の三作は共作となる。私生活では故郷での不動産投資に成功、シェイクスピアは金持ちになっていた。演劇の第一線から、また中心地ロンドンからも退こうとしている。内心を知る由はないが、未練たらしく演劇世界に留まるつもりはなかったらしい。芸術に人生をかける――そうした芸術家像はまだ知られていない。

シェイクスピアと幾人もの共作者との関係について、記録はあまり残っていないようだ。失われた「カルデニオの物語」については尚更。当時英国でも評判のドン・キホーテから、特にカルデニオのエピソードが選ばれた理由について、二組の男女の関係が裏切りを介して変化しハッピーエンドで終わるプロットがシェイクスピアの好むところだったから、とする説がある。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(3)   #64

セルバンテスのカルデニオとシェイクスピアのハムレット、二人の登場人物の類似性について「近くにいた相手に手ひどく裏切られること、復讐の手前での逡巡、内省的な性質、最愛の女性の悲劇(ルシンダは式の最中ほとんど死にそうになる)、そして狂気」と#29に記した。しかし、最近もう一つの相似に気づいた。

二人とも、裏切りの陰謀によって遠方に追いやられた後、「手紙」を読んで真相を知り、故地に舞い戻るという経験をするのだ。ありがちな筋ではあるが、ここまで共通点が多いとは……。となると、類似性の指摘がないことがむしろ不思議に思えて来る。唯一、これも最近、「哀れなカルデニオはスペインのハムレットであるかのようになすすimpotentlyべもなく復讐を探し求める」(劇評家Michael Billington。私訳)と新オックスフォード版全集「二重の欺瞞」冒頭の評言抜粋集にあるのを発見したが、明らかに揶揄するニュアンスだ。

研究者たちは、こうした類似を学問的には無意味として取り上げないのかもしれない。しかし、気づいていないだけという可能性もある。こんな例を知っているからだ。#28でカルデニオとキホーテの相似性について書いたが、作品内で重要な意味を持つこの要素への言及が、たとえば『ドン・キホーテ事典』のカルデニオの項目にもない。恐らく事典が編集された時点(2006年)では指摘されたことがなく、つまるところカルデニオは研究者たちの論点ではなかったと推量される。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(2)  #63

国会図書館に遠隔複写を依頼していた太田一昭九州大学名誉教授の論文「『二重の欺瞞』の作者同定と文体統計解析」が届いて読むことができた。結果、カルデニオとハムレットの間に縁戚関係を見つける意義に確信を深めた一方で、「立論」の方向性は変えることにした。

つまり、(1)にあげたゲイリー・テイラーらによる著書中の論文に依拠し、それをカルデニオ-ハムレット説の骨組みとして論述しようと考えていたのだが、この計画は捨て、文献から得た知見を活かしながらも、それらは主に自説を補強する材料として使用することにした。

これら論者は、「二重の欺瞞」が、18世紀のシェイクスピア全集編纂者であるルイス・ティボルドによる偽作とみなされることが多かったのに対し、新史料の発見やコンピュータを活用した研究によって定説を覆し、シェイクスピア(とジョン・フレッチャーによる共同)の作品として、シェイクスピアの正典とされるアーデン版、新オックスフォード版(断片として収録)が出版されたのだった。 続きを読む

翻訳と葛藤

本文を一部訂正しました

コロナ禍の影響が、このブログのような片隅にまで及びました。『二重の欺瞞』について検索していたら、合作説を否定する日本の学者の論文があることが分かりました。これは『二重の欺瞞』偽作説に直結するものと思われます。中身を確かめるのに、普段なら国会図書館に行けば一日で片づくのですが、新型コロナの影響で休館中。

6月11日からは抽選で1日200人ずつ入れると開示されたものの、最初の申し込み締め切りはすでに過ぎていました。私のくじ運からすると当たるとは思えず……遠隔複写を申し込みました。これを読んでから#63を書くつもりです。今回は、#61で予告しながら後回しにしていた翻訳について語ることにします。

辞書を引き引き『青白い炎』を解読し、私の読解力が及ばないところは日本語訳を参照するので、ずーっと原文と訳文を行ったり来たりしていました。当然なかなか先に進みませんが、苦労してでも原文を読む方が楽しいと感じていました。 続きを読む