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旧約聖書を通読するには

前の投稿で予告した「旧約聖書の凄さ 番外編」です(予告の投稿自体は削除しました)。番外編も何回かの続きものになります。

旧約聖書を読み切ったのは良い経験だったと改めて思います。ページを繰るのももどかしいといった面白さとは対極にある本ですが、読書の楽しみの奥深さを再認識させてくれました。旧約に挑戦して、「創世記」「出エジプト記」までは読めても、続く「レビ記」「民数記」で断念する人が多いのだそうです。これを「レビ記・民数記の壁」と加藤隆氏は表現しています(『旧約聖書の誕生』)。

私もこの壁に阻まれて、何度か挫折しました。その後、壁を突破したものの「申命記」から「ヨシュア記」へと続いて現れる虐殺場面に気分が悪くなって、読み進められなくなりました(#24参照)。災い転じて福、ここで虐殺の記録について調べるために旧約関連本に何冊かあたったことで、通読への道が開けました。旧約は、それ一冊だけで読み通すのは難しい本だったのです。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(8)  #59

彼方から呼ばわる声が聞こえた日の夜明け(適当)

旧約聖書は、弱小民族が過酷な歴史に翻弄される中、生き残りのために編んだ叡智の集成だった。旧約の凄さは、つまるところ、そこにある。ヤハウェ信仰につながる人々は、アッシリア、バビロニアによる侵略と捕囚、ペルシア、ローマ等による支配を受けつつも、旧約聖書を完成させ、ユダヤ人としてのまとまりを維持した。一方、たとえば彼らの国を滅ぼした大国アッシリア、バビロニアは歴史の流れの中で滅び去り、その後、民族集団としてのアッシリア人、バビロニア人は消滅してしまう。

旧約の中で、ユダヤ民族の生存戦略のイデオロギー的な側面が最も顕著に現れているのは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言書だろう。予言者たちは、敗残の同胞にこう語りかける――主は他国の神に敗れたのではない、主の他に神はいないのだから。我々を蹂躙した敵は、我々を罰するために振るわれる神の鞭なのだ。だから、支配者に対して抵抗するな、主は、我々が主との契約を破り、罪を犯したことを許しはしない。しかし、主は我々を見放さず、やがて救いの手をさしのべるだろう。

預言者たちは、自分たちの犯した罪と下される罰について熱弁を奮う。それが(短いとは言えない)預言書を通して執拗に続き、読んでいる私の脳内には濃霧が立ちこめて来るかのよう……だったのが、ある時一挙に展望が開けたことは前に述べた(#52)。旧約の罪と罰というテーマは、預言書以外の箇所では、物語化されたり、詩文化されたりしてある程度受容しやすくなっている。しかし、預言書はイデオロギー剥き出しなのである。そのため、預言書からは、はるか遠くで呼ばわる「声」が、聞き苦しいほどしわがれてはいるが真剣そのものである「声」が聞こえて来るのである。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(7)  #58

バビロンの郊外電車 「神聖な牛」の塗装が施されている

信仰に篤く高潔なヨブは、罪もないのに家族や財産を全て失い、業病に苦しめられる。それでもなお忠実な神の僕であり続けられるのか……? ヨブ記の問いは旧約時代のユダヤ人に止まらない普遍性を持っていたため、幾多の哲学者や宗教者によって追究され、重要な文学作品を生み出すインスピレーションの源にもなった。とはいえ、ヨブの問いかけは、何よりバビロン捕囚以降の苦しみの中にあるユダヤ人にとって切実なものだった。

ヨブの不幸は、イスラエル北王国滅亡以降、ヤハウェ信仰の立て直しをはかって来た人々の悲運と見合っている。彼らは周囲の堕落した信仰のあり方を否定して、ユダ王国ヨシア王の元で宗教改革を行い、正しい戒律や依って立つべき民族の歴史を編もうとしていた。だが、そうした試みはバビロニアによる侵略で虚しくなった。異教徒が繁栄を謳歌する一方、ヤハウェ信仰につながる人々は、信心の薄い者も篤い者も等しなみに捕囚やディアスポラという悲運に苦しんだのである。篤信者の立場は、ヨブに相似と言える。彼らが捕囚下で旧約の基を築いたのだった。

ヨブ記は旧約聖書の中で、創世記と出エジプト記ほどではないにしろ、よく読まれている。私も今回二度目のはずだが、前回読了したのか怪しい。今回、ヨブが全てを失った上に重篤な皮膚病に苦しめられるところまでは順調だったけれど、友人による説得が始まると辛くなった。ヨブと友人三人はお互い一歩も譲らず、議論を続ける。まるで花いちもんめのようだ。子供の頃、外から見ても、参加しても、何が面白いのかさっぱり分からなかった、あの感じ。平行線のまま、延々と議論は続く。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(6) #57

バビロンの車市場にて

バビロニアによる捕囚とアケメネス朝ペルシアの支配の下でも、ユダヤ人は一つの民族集団として生き抜くことができた。独自の国を再建することはかなわず(第二次世界大戦後のイスラエル建国まで)、各地に分散して居住(ディアスポラ)しながらも、「宗教民族」として存在し続けたのである。その核に、ヤハウェ以外の神を認めない一神教という宗教の独自性があった。

しかし、先祖伝来の土地と結びついた民族的な基盤を根こそぎにされる捕囚のような状況では、独自の信仰や生活習慣が失われていくのは自然な成り行きだ(現代でも、同胞コミュニティのない国への移民なら同じこと)。バビロンに閉じ込められたユダ王国の人々は、そのような有様を周囲で見聞きし、また我が身のこととして体験していたはずだ。その結果どうなるか、彼らは捕囚以前に知っていたのである。

ヤハウェ信仰を共にするイスラエル北王国の人々は、アッシリアによって各地に分散して居住させられ、民族としては雲散霧消してしまう(いわゆる「失われた十部族」)。南のユダ王国には北王国の滅亡から逃れて移住した人も多く、彼らは山我哲雄氏の言う信仰上の「革命」の担い手ともなった。北王国の滅亡を直接、間接に知る人々は、捕囚という状況下、北王国の悲劇を繰り返さず、民族を存続させるために何が必要か懸命に考えたはずだ。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(5) #56

バビロンの祭り(町田だったかも?)

バビロンは古代都市の固有名であると共に、特にキリスト教世界において邪悪や淫乱の象徴でもある。この悪名はバビロン捕囚抜きには考えられない。紀元前6世紀のバビロンには、ユダ王国だけでなく、ネブカドネツァルが征服したいくつもの国の人々が捕囚として住まわされていた。ユダ王国以外の多くの人々は、この「魔都」に留められる間に民族的な同一性を失っていったようだ。旧約聖書以外、捕囚された側の記録が残っていないらしいのは、ネガティヴではあるがその証左となりそうだ。

一方、ユダ王国の人々は自らの同一性を保持しようと決意し、実行する。その成功の結果として現在につながるユダヤ人、ユダヤ教が析出されたのだった。捕囚後エルサレムの神殿でヤハウェを祭ることができなくなると、互いに寄り集まって礼拝するようになる。これがシナゴーグでの集会につながる。信仰の身体的な刻印として割礼や、日常生活の型枠として週に一度の安息日を守ること、食べ物の禁忌なども、ヤハウェ信仰と独自の民族性を保持し続ける強力な装置となった。

ユダヤ教、キリスト教は「一神教」というのが常識だが、「ヤハウェの他に神はなし」という「唯一神教」として確立されたのも、実はバビロン捕囚以降のことである。それまでのヤハウェは、「私たちが契約する唯一の神」や「神々の中で最も優れた神」だった。そのつもりで旧約聖書を読み返せば、「ヤハウェの他にも神がいる」ことを示唆する記述はいくつも見つかる。山我氏の『一神教の起源』では、これを旧約編纂時の「検閲漏れ」と書いている。例を見てみよう。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(4)  #55

購入した、あるいは家にあった旧約関係本

神によってエジプト脱出の使命を与えられたモーセは、神威を示すためにファラオの前で杖を蛇に変えてみせた。するとファラオお抱えの呪術師も、同じように杖を蛇に変えたのである。出エジプトは、「唯一神」の力によらずとも杖を蛇に変えることができるような、そんな大昔あるいは「昔々」に起こったのだった。だから、#25に書いたように出エジプトの証拠となる文書や記録がなくても、まあ仕方がないとしよう。

しかし、武勇を誇るダビデが建国し、ソロモンの時代に栄華を極めたと旧約聖書に記されるイスラエル王国についても、同様に聖書以外に「証拠となる文書や記録」が見つからないとなると事情が違う。1990年代になって「ダビデ」と記載のある碑文が見つかったのが唯一の「証拠」なのだという(しかも碑文の記述は旧約と食い違いがある)。エジプトからユーフラテス川に至る地域には、もっと昔の時代の遺跡がいくらもあるというのに。

こうして明らかになるのは、一つは旧約は史実を記した本ではないこと、もう一つは旧約時代のユダヤ人は群小民族の一つに過ぎず、ダビデの王国にしても地方の豪族が成り上がった程度のものだったということだ。前者についてはまた後で触れる。後者については、もちろん旧約に弱小民族だったという記述はなく、各種の聖書入門本にもそうは書かれていない。学術的な内容を含む本では触れられる場合があるが、目立たない書き方なので素通りしそうになる。私はそうだった。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(2) #53

 バビロンへ続く道(渋谷だったかも?)

前回触れたように、旧約聖書を読むのは荒野、砂漠を行く旅に似ている。オフロードの冒険の楽しみは満載だが、癒しや共感といったものは、思いがけず行き着いたオアシスで味わう清水のように希少だ。荒野、砂漠は平坦ではなく、山もあれば谷もある。モーセ五書、歴史書(ヨシュア記等)はまさにアップダウンの連続だ。それに続く文学書(詩編、箴言等)は比較的楽に読めるが、その後には預言書という険しい山道が待ち構えている。

私の読んだ、続編を入れて1900ページ弱の新共同訳、旧約聖書続編付きの版では、1200ページを過ぎた辺りから読みづらさが増す。ここまで来て、まだ難敵がいたのかとガックリ。何が書いてあるのか、頭に入らないことが多くなる。視点が変わったのに気づかなかったり(しょっちゅう変わる)、いつの間にか文字面だけを目で追って意味がわからないままだったり。同じ文章を幾度読み返したことか。

預言書では、預言者はそれぞれ違っても、語られる内容には共通点が多い。王や人々が主との契約を守らず、ヤハウェ以外の神や偶像を崇拝したり、婚姻などで他民族と混じり合ったりしたことで、主の逆鱗に触れる。このため、ヤハウェは他国の強大な武力を用いて彼らを罰する。外国勢力に蹂躙され、多くの人が遠方に拉致されて捕囚となる。しかし主は彼らを見捨てたわけではなく、やがて捕囚から解放されるだろう、とも語られる。大まかには、こんな感じ。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(1) #52

#52は、「その本は、なぜ面白いのか?」の第52回という意味です。#51から随分長く中断していました。このブログはそもそもこの形で始まったのでした。

旧約聖書を読み続けるうち、とんでもなく凄い本だと思うに至った。これからその凄さについて記すつもりだが、原則的に宗教的な考察は含まない。私はユダヤ教、キリスト教の信者ではなく、別のどんな宗教の信者でもない。宗教を論ずる素養に欠けている。また、前にも旧約のある種の凄みについて触れたが、今回の考察とはほぼ無関係である。私は一冊の本が世界と世界史を作り出したことに衝撃を受けた。そのことを書きたい。

久しぶりの「その本は、なぜ面白いのか?」なので、旧約聖書が面白い本と言えるのか、最初に触れておこう。今回はほとんど退屈しなかった(名前の羅列や神殿建築物の詳細などは斜めに読む)。一方で、読み物として面白いかと問われると、肯定しにくい。旧約は面白く読むことができるが、その面白さは読者の側から働きかけることで得られる種類のものだと思う。

実際、旧約を読む道筋は難路である。整備された道で、美しい景色やスピードのスリルを楽しむようにはいかない。矛盾や不合理の数々、感情移入しにくい登場人物、馴染みのない自然、記述や挿話の繰り返し、一方で断絶も多く……ガタガタ道を、私の持っている版では、2段組2000ページ近くを踏破しなくてはならない。 続きを読む