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レワニワ閲覧室に新蔵書

セルバンテス/シェイクスピア

レワニワ図書館の閲覧室に、新蔵書『シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?』を配架しました。「三田文学」2021年冬季号掲載の同題のエッセイを一部手直しし、特別付録として「カルデニオ-ハムレット化計画」を付け加えたものです。本文の概要は、前回の当ブログの他、「レワニワ瓦版」の2月15日付けの記事中にも載せてあります(改行を除けば同じものです)。

シェイクスピアの<二重の欺瞞-カルデニオの物語>問題についてはとりあえず終了、今後は英訳版を掲載する予定があるのみです。ただし、余録として勝手に妄想した『恋に落ちたシェイクスピア』の続編のプロット(再び恋に落ちたシェイクスピア?)を、そのうちに投稿しようかと考えています。

ドン・キホーテとセルバンテスについては、とりあえず休止とします。再開するとしても、恐らく何年か先になるでしょう。読んだ本については、これからも書きたいことが見つかった時に書きます。予告してあった風土記の補遺も必ずやるつもりです。ただ、嬉しいことに、先日、2月12日に突然小説を書く目途が立ったので、すぐに執筆に取りかかることはないものの、こちらに徐々に重点を移していこうと思います。いや、驚きました……小説については、また改めて記します。

トリュフの行方――カルデニオ問題、補遺の補遺

カルデニオ-ハムレット問題はブログでは終わったはずでしたが、2016年刊の本を追加で購入したら(本文124ページなのに送料・税金込み約4000円!)示唆に富んでいたので、メモを残します。Deborah C.Payne(編著)、Revisiting Shakespeare’s Lost Play : Cardenio/Double Falsehood in the Eighteenth Century Palgrave Macmillan。

巻頭に置かれたロバート・D・ヒューム教授(ペンシルベニア州立大学)の「『カルデニオ』/『二重の欺瞞』問題の評価assesment」では、梗概に「二重の欺瞞」に「混じり気なしのシェイクスピアは殆どあるい全く含まれない」とあって、私の説にとってまずそうだと危惧しましたが、全文を読んだら大丈夫でした。私のカルデニオ-ハムレット説では、純粋無垢のシェイクスピアの証拠がなくても困りません。あれば素晴らしいのですが。

一方でティボルド偽作説は明確に否定しており、ティボルドが17世紀後半の何らか原稿を元に作業したのは事実だろうと記しています。同書の別の著者は、シェイクスピア作かどうかはともかく、ジェイムス王朝時代(17世紀初頭)の劇風が残存していると述べます。こちらの意見は少々困ります。シェイクスピアが作者(の一人)でないと、イギリスとスペインの二人の文学的巨人の出会いが実現しません。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(5)結論  #66

シェイクスピアは、ドン・キホーテのカルデニオを「二重の欺瞞」のフリオに取り替えたりしない。ハムレットの作者の目に、復讐の企図と実行の合間から逃げ出して内省する半狂人と、直情的に修羅場に躍り出てしまう考えのない若者が同じに見えるはずはないのだ。近代以前のヨーロッパ人が内省をしなかったわけではないだろう。内省という精神的な営為がまだ認識されていなかったのだ。

そうした人々にとってカルデニオは理解し難く、フリオは受け入れられやすい。その上、単純な青年は劇をスペクタクル化する。セルバンテスの原作にしたがって、緊迫した結婚式の場面が活劇でなく主人公の独白に続くとしたら、観衆は喜ばないだろう。絶頂期のシェイクスピアがハムレットのような素晴らしい独白を書くのでなければ。この改変は、誰が行ったのか?

前回述べたように、「二重の欺瞞」のプレゼンターであるルイス・ティボルトによれば、1613年初演の「カルデニオの物語」は17世紀後半に改変されている。タイトルと登場人物の名前の変更という、もし偽作者であれば下策と思えることをティボルドがしたのか否か考えるなら(普通はしない)、本当にその時期に改変が行われ、ティボルドが引き継いだ可能性は残る。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(4)   #65

シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだのだろうか? 考えられていい問題だと思うが、私が知り得た範囲では、そうした研究が進んでいる気配はない。英文学とスペイン文学の間の溝に落っこちてしまったのかもしれない。この課題を検討するために、まずは「カルデニオの物語」当時のシェイクスピアの状況を簡単にみておこう。

劇作では、1610年頃に書かれた「テンペスト」が最後の単独作品で、後の三作は共作となる。私生活では故郷での不動産投資に成功、シェイクスピアは金持ちになっていた。演劇の第一線から、また中心地ロンドンからも退こうとしている。内心を知る由はないが、未練たらしく演劇世界に留まるつもりはなかったらしい。芸術に人生をかける――そうした芸術家像はまだ知られていない。

シェイクスピアと幾人もの共作者との関係について、記録はあまり残っていないようだ。失われた「カルデニオの物語」については尚更。当時英国でも評判のドン・キホーテから、特にカルデニオのエピソードが選ばれた理由について、二組の男女の関係が裏切りを介して変化しハッピーエンドで終わるプロットがシェイクスピアの好むところだったから、とする説がある。 続きを読む

ハムレットとドン・キホーテ

ツルゲーネフが「ドン・キホーテは殆ど読み書きができません」と述べた件の続きです。猫の尻尾をつかんだつもりで「問題」をたぐり寄せてみたら、その正体はライオンと判明しました。本気で取り組む必要のあるテーマだったということですが、私の興味の対象から外れている上に、眼痛と頭痛も去りません。逃げます。逃げますが、行きがかり上、突如現れたライオンについてできるだけ簡略に記します。その後で、前回述べた「二つの可能性」に触れることにします。

昭和23年初版の岩波文庫『ドン・キホーテ正編(一)』には、スペイン語原典から初めて日本語訳を行った永田寛定氏による詳細な解説がついています。中でツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」に触れていると知り、先日入手しました(昭和46年改訂版)。その「名高い講演」は解説の主要な話題の一つだったのですが、私がおかしいと感じたことについては、片言もありません。訳者の永田氏が気づかなかったはずはないのに、どういうことでしょうか?

永田氏の解説の主題は作者や主人公などの人物論であり(主人公=作者と強調されます)、作品と歴史や社会とのかかわりについてです。その点において、実は1860年にロシアで行われたツルゲーネフの演説と相似です。自己にとらわれていっかな行動しようとしないハムレットと、自らを顧みず「大義」のために生きるキホーテとの対比は、時も距離も言語も超え、戦後日本においても有効だったのです。それは民衆のために身を捨てる革命家と、内省の内に生きて傍観者となる知識人の比喩でもありました。 続きを読む