常陸国風土記の「作者」、結論の補足  #83

Wikipediaより*

 前回、春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆは常陸国風土記の書き手である、とこのブログとしての結論を出した。補足すべきポイントがある。一つは、撰述者が複数である可能性。もう一つは、その結論が「ある程度の客観性」(#78)を有し、「高い可能性」(#75)を実現したのか検討すること。

 前者については、ブログを書く途中で、私は老を書き手の一人だと考えるようになり、そのことについて何度か触れた。常陸国風土記中の複数の文体が混淆していることは先学の指摘するところで、たとえば三浦佑之氏は複数説を明示的に語っているわけではないが、#75の指摘はその可能性を示唆するものだろう。そうした文体の違いを、複数の撰述者が関わったことによるとみなすのは自然だと考える。

 候補者は三人の国司と、その下僚である老と高橋虫麻呂。私は以下のように考える。和銅元年(708年)に常陸守ひたちのかみとなった阿倍朝臣あそみ秋麻呂は、和銅6年5月、「風土記」編纂のみことのりが出されると、歌人・文人として知られ、恐らく秋麻呂と私的なつながりのあった老を常盤介ひたちのすけとして呼び寄せる。老が和銅7年(714年)正月、従五位下に叙爵したのは、介に必要な冠位を与えるためだった、というのが私の見立てである(#80参照)。老は常陸国風土記撰述の任にあたり、領国各地からの報告に、自らの見聞も重ねて「」の原文を作成した。

続きを読む

常陸国風土記の「作者」、結論  #82

Wikipediaより*

 万葉集を読んで感じられる春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆの歌の特質とは、どのようなものだろうか? その多くが個の性質を帯びていることだ、と私は考える。万葉の時代の「個」とは……という面倒な問題には立ち入らず、作品にあたろう。第1巻の56番歌「河上かわのへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢こせ春野はるの」は、繰り返しのリズムが軽やかで、老を有名にするほどではないにしろ、愛されているかわいらしい歌だ。坂門人足さかとのひとたりの「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を」は少し前の54番に置かれているものの、こちらは派生歌だ。

 使われている言葉は8割方同じなのに、両者には明確な違いがある。56の老は川辺の椿を一人眺めている。一人だから飽きるまでいつまでも見ていられる。54の歌は、岩波文庫2013年版の注釈によれば、秋の巨勢野を行く同行者に、椿が満開だった巨勢の春野を偲んでみましょう、と呼びかけているのだ。歌は共同体的なものから生まれ、やがて文字に記録されて万葉集になったわけで、野遊びの座興のような人足の歌は、こうした成り立ちを考えれば正統的とも言える。

 54について、単に、巨勢の春の野が思い出されるなあ、とする解釈もある。この場合も人足は一人ではない。私はあの「つらつら椿」歌を参照していますよ、と読む人に目配せしているのだ。成功して第1巻の54番という早い掲載順となった。うがった解釈をすれば、老のオリジナルは満開の椿に一人没入して眺め入る姿が、万葉の時代の人々には見慣れない、落ち着かないものだったので、派生歌を先に置いたのかもしれない。老の他の歌からも、こうした個的な性質は読み取れる。以下、歌自体は#78を参照のこと。 続きを読む

常陸国風土記、「作者」と民衆  #81

 民衆の姿を描いた万葉歌人と言えば、一も二もなく山上憶良だろう。そもそも無名の防人や相聞の主観による歌を除けば、憶良の作以外、万葉集の中で庶民が描かれることは少ない(高橋虫麻呂は例外の一人)。彼の代表作「貧窮問答歌」に漢文学の影響がみられることは、国語の教材として教えられることは滅多にないものの、研究者にはよく知られており、実は斎藤茂吉『万葉秀歌』(#74)にも指摘がある。

 万葉集自体、漢文学の影響が大きい。国文学者の小島憲之氏は、万葉集を代表する歌人柿本人麻呂は「ほかの歌人にくらべてより多く漢籍をひもといた事は疑がない」とし、憶良は「漢詩文が自らこなせた事は萬葉人の中でも上位にある」と記している。憶良が冠位のないまま遣唐使の少録(記録係補佐)に選ばれたのは抜群の「語学力」の故だっただろうし、二年間彼の地に滞在してさらに磨きがかかったはずだ。渡唐時に42歳。筑前守として九州に赴き、太宰帥だざいのそち大伴旅人らと交わって万葉集に収められる歌の大部分を作ったのは六十代半ば以降のことである。

 春日蔵首老kかすがのくらのおびとおゆは、万葉歌人としては憶良と比べられないが、漢学の素養が官界での栄達を導いたのは相似だ。前回述べた通り老は新羅留学の可能性があり、中年になって政府の官吏に取り立てられて従五位下の貴族に列した。それが憶良と同じ和銅六年(714年)正月だったのは偶然の一致なのかどうか……栄達にあずかるまでの経歴が殆ど知られていないのも共通で、両者とも貴族の周辺にありつつも画然と区別される家系の出身だったようだ。そんな二人が、当時としては例外的に民衆の姿を文章にしたのだった。 続きを読む

常陸国風土記と老の生涯   #80

久慈川支流の河原*

 #6で、川べりでの「盛夏の楽しみ」は、古代も後の時代も似ていて、「私も子供時代にこんな楽しい時間を過ごしたことがある。今の子供も少し幸運なら可能だろう」と書いた。常陸国風土記の「夏の月の熱き日に、遠き里近きさとより、熱きを避け涼しきを追ひて、膝をちかづけ手を携へて、筑波の雅曲みやひとぶりを唱ひ、久慈の味酒うまさけを飲む」という部分を引いてのことだ(子供時分、さすがに酒は飲まないが)。常陸国風土記は、ここでも個人の思い出を誘い出すような書きぶりなのだ。

 こうした民衆の生活を直接的に描く文章は、常陸国風土記以外、風土記でも記紀でも殆どお目にかからない。かろうじて日本書紀に「垣間見える」だけだ(#6)。実は書紀と風土記には共通点がある。書紀には、地方の民衆に伝えられたものが記録され、「何らかのルートによって書紀編修の史局に集められた」と考えられる文書があり(#20)、風土記はそもそも、領国の各地から原資料となる報告が集められて「解」に仕立てられたものだ。しかし他の風土記における民衆の姿は、常陸国風土記と違い、神々や天皇の活動の背後で見出されるに過ぎない。

 このことは、常陸国風土記の共感的な書きぶりが、書き手と民衆との距離の近さによるものと言い切れないことを示す。播磨国風土記や出雲国風土記は八木毅氏の言う「庶民の文体」で書かれ、後者では従六位の国造=地方官がまとめたことが明記されている。九州の二風土記の文体は、藤原宇合うまかいの手になるとの説もあるほど「貴族的」だ。一方、常陸国風土記では、書き手候補中最も地位が低いと推定される春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆですら、最下級の従五位下とはいえ貴族に列する者である。五位以上と六位以下とは身分的に隔絶していたとされる。 続きを読む

常陸国風土記と「水の詩人」  #79

筑波山。Wikipediaより。

 このブログでは、春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆを「水の詩人」と名づけよう。老が残した八首の歌と一つの漢詩の内、六首は水とかかわる。一見関係のなさそうな284も、そこに歌われた焼津、阿倍、駿河という地名を大井川、安倍川、駿河湾と結びつくものと考えるなら、三分の二を超えることになる。海や川は詩歌の重要な題材、素材だが、一人の作品がここまで片寄ることは滅多にないだろう。特殊なケースと言えるのではないか。

 とはいえ、老が特に水関連に力を入れて作品づくりに励んだとか、選者が海や川を題材にしたものをわざわざ選んだ、といったことはありそうにない。サンプル数が少なすぎる難点はあるものの、老は水に関連する題材において詩想が豊かに発揮される詩人である、くらいのことは言ってもいいように思われる。そして、私が常陸国風土記から取り出した三箇所の文章(#75参照)も、二つは水にかかわるものだった。風土記について書き始めた時、私は水の主題など意識していなかった。

 これを理由として、老が常陸国風土記の執筆者(の一人)とするのはさすがに無理だろうが、これからあげる他の議論と併せて、老説の根拠の一つになることを期待している。風土記と万葉集とを併せて、老を一人の詩人として評価したいと考えているように。しかし、この先も難しい展開になるは間違いない。うまく書ければいいのだけれど。 続きを読む

常陸国風土記と三人の万葉歌人  #78

 天平の無名詩人、春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆを、首尾良く常陸国風土記に詩想を吹き込んだ人物と名指すことができるだろうか? 同風土記の撰述者とされることの多い藤原宇合うまかいと高橋虫麻呂と併せ、三人の万葉集の作品を比較することで確かめたい。別に論文ではないのだから、私がそう思ったでもいいのだが、ある程度の客観性を目指す方がこのブログらしいと思う(引用は岩波文庫2013年初版『万葉集』による。以前の回と表記が違っていることがある。末尾の数字は、巻数-歌番号)。

 まずは春日蔵首老。弁基(3-298)と春日(9-1717)の歌を含む一方、社交的な返答歌(3-286)を省いた。老がその「個性」を発揮して作ったとは思えないので。逆に、同じ観点から、#72で取り上げた懐風藻の漢詩を再録した。

 河上かわのへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢こせ春野はるのは(1-56)
 ありねよし対馬つしまの渡り海中わたなかぬさ取り向けて早帰りね(1-62)
 つのさはふ磐余いはれも過ぎず泊瀬山はつせやま何時いつかも越えむはふけにつつ(3-282)
 焼津やきづが行きしかば駿河なる阿倍あへ市道いちぢに逢ひしらはも(3-284)
 真土山まつちやまゆふ越え行きて盧前いほさき角太すみだ河原かはらにひとりかも寝む(3-298)
 三川みつかは淵瀬ふちせもおちず小網さでさすに衣手ころもで濡れぬはなしに(9-1717)
 照る月を雲な隠しそ島陰しまかげに我が船てむとまり知らずも(9-1719)

 花色花枝くわしょくくわしを染め、鶯吟鶯谷あうぎんあうこくあらたし。水に臨みて良宴を開き、さかづきにうかべて芳春をはやす。(懐風藻59) 続きを読む

常陸国風土記の複数の書き手  #77

 常陸国風土記は、他国の風土記と比較して、四六駢儷体しろくべんれいたいによる美文を随所に見せ、平板な表現にならない工夫をするなど、相当高度の漢文的教養が必要な文飾修辞を施したもの、と国文学者の秋本吉徳氏は記している(『常陸国風土記 全訳注』講談社学術文庫、2001年より。前々回に書影を示した)。八木毅氏の言う「貴族の文体」であるが、こうした文体論はおおむね同風土記の書き手を探るためのものだった。

 私は常陸国風土記の文章に強い魅力を感じ、「作者」として一人の詩人の姿を見出したいと思った。奈良時代、詩文を書き表す方法は「漢文」以外になく、詩人はそうした技術を修得した「文人」に限られていた。しかし、四六駢儷体を駆使した美文が書けることは、語学力の高さは示しても、詩才を証明しない。常陸国風土記に限らず、元から修辞的な美文が苦手なので、「庶民の文体」の「平板」さは私にとっては欠点ではなかった。

 拙ブログ#74で「たまきはる宇智うちの大野の馬めて朝踏ますらむその草深野」という歌を紹介した際、斎藤茂吉の評釈の一部を省略した。「……」とあるのは「露の一ぱいおいた」で、草深い野を修飾している。歌に草露の描写などない。しかし、並べられた馬たちの脚もとを覆い隠すほど丈の高い草の葉が朝露でいっぱいになっているのを、茂吉はありありと見たのだ。短詩型の力だが、ご存じのように、こうした喚起力を持つのは歌や詩と限らない。 続きを読む

常陸国風土記の文体  #76

 普段話すのは日本語だけれど、読み書きは英語でしかできないという状況を考えてみよう。第二次世界大戦の敗戦後には日本語廃止論を唱える識者がいたし、少なくない旧植民地諸国における現実でもあるわけだから、決して突飛な空想ではない。そこでは、詩や小説であろうと英語で書く以外の選択肢はない。

 そんな逆境下でも、文学を志す日本人はきっと出て来るはずだ。英語がよくできる書き手は見事な英語を駆使し、英語圏の知識人に誉められたりするかもしれない。そうした人はたいてい英米育ち、留学経験者だ。一方で海外生活をしたことがなくても、詩や小説を書きたいと思う者も現れるだろう。英語力では見劣りするけれど、書きたい意欲と才能によって言語上の困難を克服し、優れた作家として評価される者も登場するかもしれない。

 そうした作家の作品は、内容はともかく英語として変だよねとまま評される。英語を日本語のように使おうとする努力を買ってあげよう、と擁護する理解者がいる一方、「倭臭わしゅうがする」と嫌な表現を使って見下す人もいる。そうした批評の多くは、英語に堪能な日本人によるものだ。「英語で書かれた日本文学」の読者たいてい日本人なので……。もちろん、これは言語表現を漢文や漢字でするしかなかった奈良時代以前の日本の状況をたとえているのだ。批評は、後世の日本人によるものでもあるが。 続きを読む