日別アーカイブ: 2018年11月25日

外国語で書かれた正史 日本書紀(3)  #21

渡来人や帰化人が共同執筆に参加できたのは、そもそも日本書紀がそうした出自の人々と当時の日本人にとって共通の文章語である「中国語」が用いられたからだった。中国語として完成度の高い部分は外国人が、そうでない部分は日本人が書いたのだとされ、日本語訛りの漢文を「倭臭」と評するのだとか。日本人自らこの語を使っているのだから、これこそいかにも日本人らしい自虐だ。いつ頃できた語なのだろうか?

一方、古事記は、岩波古典文學体系『古事記』解説から引けば、「漢字の語序を破ったり、助詞や助動詞や敬譲語をあらわす文字を補ったりし」た「変則の漢文」で記されていた。その解説では、太安万侶が「漢字による国語の表記に異常な苦心を払い、漢字の音と訓とを適当に塩梅し」て造り出したとされている。実際には、こうした日本語表記は古事記編纂の時代には既に使われていたものらしい。それでも、古事記が書くにあたって大変な苦労を要したであろう「生成過程の日本語の文章」で記されたのは事実だ。かたや書紀は、当時のインテリには馴染みの言葉である中国語が基礎となっている。そうした執筆者たちの姿勢が、太安万侶のそれよりも明るく、軽く見えたとしても不思議ではない。

おまけに記紀の執筆者たちは、外国語のフィルターを通すことで、外国人のような視線で自国の歴史を見ることができた。彼らは、日本という湿った土地から浮遊しつつ、自国の歴史と対面していたのである。このことも私が書紀を初めて読んで受けた明るく、軽い印象につながっているはずだ。唐突なようだが、村上春樹が、処女作「風の歌を聴け」の冒頭を英語で書くことで、(かつて多くは悪口として軽いと評せられた)その文体を獲得したことを思い起こす。

クンデラやナボコフも、亡命という軽くも明るくもない経験を経ているので村上と同列には置きにくいが、それぞれ生得の言語ではないフランス語や英語を用いて作品を著しており、彼らの書く文章において、軽やかなユーモアはその特徴の一つである。「母国語」から引き剥がされる苦渋の一方には、母国語の拘束から逃れる解放感もあっただろうか……苦渋の深さとは較べられないとしても(勿論、並の人間には及びも付かない頭脳の働きや語学力があってこそなのだが)。そう言えば、書紀の執筆者には、朝鮮半島からの「亡命者」やその子孫が含まれていたとされる。

何を書き表そうとしても日本語では難しく、外国語を使うしかない時代があったのだ。太安万侶をはじめ先人たちのおかげで、私ごときもこうして楽々と(?)文章を綴ることができる。世界には、母国語で文章を綴ることができない、あるいは母国語が文章を書く際の第一の選択肢とならない国がいくらもある。日本人は幸運なのだ。

文章語としての日本語が形成され、継承されていくという幸運の系譜の初っぱなに古事記は位置している。そして、古事記は長い間、唯一「日本語」で綴られた歴史書だった(それを本当の日本語の文章と言っていいのかは別として)。なのに重苦しいだの暗いだのと語るのは、悪口ではないつもりだが、失礼な気はする。

古事記は、しがらみだらけの「母国語」の世界の中で書かれているからこそ重苦しいのだ。前に使った比喩を引っ張り出すなら、天蓋が低い。内側に描かれた絵は暗く、禍々しく、「倭臭いなかくさい」。平安以降の読書階級が古事記に目を向けなかったのは、それが田舎染みてヘンテコな言葉で書かれた過去の遺物だったせいもあるのではなかろうか。

また、現在、出雲王朝の存在の大きさを示していることなどから、古事記が贔屓にされることが多いが(書店に並ぶ日本書紀関係本の少ないこと!)、征服された諸部族にとっては書紀と選ぶところはないと思える……どうも、古事記に対してはネガティヴな言葉が出て来てしまう。田舎から都会に出て来た人間である私は、「倭臭」をうまく相対化できず、思わず否定したくなるのかもしれない。おや、記紀で4回書いてしまった。次回で終わりますように。