岩崎弥太郎日記は、なぜ面白いのか?

 岩崎弥太郎の日記には、幕末維新史に名を刻んだ人物が数多く登場します。有名どころをあげれば、坂本龍馬、五代友厚、陸奥宗光、板垣退助、シーボルト、グラバーら。一般的な知名度ではやや劣りますが、後藤象二郎しょうじろう武市瑞山たけちずいざん半平太はんぺいた)、山内容堂(土佐藩主)、池内蔵太くらた、井上馨らの名前も記されています。多くは単に会ったというのではなく、弥太郎が(長崎赴任時を中心に)実際に交際を持った人物たちです。

 弥太郎の日記は、漢文が基本で読みづらくはあるものの、読めば楽しい史料的価値を超える史料だと思います。綺羅きら星のような歴史上の人物たちとの出会いは、彼の日記がもたらす感興の一例です。こうした面において、弥太郎の日記は下級武士の残したものとして例外的です。幕末期の弥太郎は、土佐藩において地下浪人じげろうにん郷士ごうしという低い身分でした(明治維新直前に上士に取り立てられます)。

 noteで、幕末期を中心に下級武士や町人たちの日記を紹介しました。そうした日記には、歴史上の人物と交際したという記述はほぼ見あたりません。『近江商人 幕末・維新見聞録』では、詳細な日記を残した近江商人が、福沢諭吉の話を直に聞いたことが解説に特筆されています。ただし彼は聴衆の一人であったに過ぎません。日記中に他に有名な人物は登場しないので、このエピソードが目立っているわけです。

 『世田谷代官が見た幕末の江戸』には、彦根藩世田谷領の代官が、桜田門外の変や皇女和宮降嫁の際に、領民の動員を命ぜられたことが記されています。前者では変の後に危惧された内戦に備えて、後者では前例のない大行列のために、人足を用意せよのと命令が下ったわけです。いずれも井伊家とのかかわりによる役儀だったのですが、代官といっても祖父の代に農民から士分に取り立てられた下級武士に過ぎず、領主井伊家と交際を持つことはありません。

 私が読んだその他の日記では、幕末期の人物といって専門家以外には注釈がないと分からない名前がまれに登場するだけでした。一方、岩崎弥太郎は、幕末維新の激動の中、上記のような人物と実務上の関係や私的な交流を持ちました。弥太郎は、当時外国貿易の中心であった長崎に二度派遣されています。藩上層部の引きがあって、下級武士なのに重要な任務を託されていたのです(実際には、罰ゲームのような「ブラック職務」だったのですが、これはまた別の話)。

 弥太郎の日記を他の幕末の日記とを比べると、動と静、能動と受動といった対照性が際立ちます。多くはおしなべて静的で単調です。たとえば幕末の京都で、地震、火災、世相の不安、政治テロ、戦争など大変な最中に書かれた町人の日記(『幕末維新京都町人日記』)においてさえ。事件について記されていても、その中に自他の生活の困難や将来への不安といったものは含まれません。

 歴史的に動乱に慣れっこの京都の町衆だから、という面もあるでしょう。しかし、それは大きな理由ではないと思います。というのも、時代の転換点の中にあった下級武士や町人が書いた他の多くの日記においても、「自他の生活の困難や将来への不安」が書かれることはまれだからです。尊皇攘夷運動に動かされた者も、日記には他愛のない日常を記しています(たとえば『幕末下級武士の絵日記』参照)。

 大きな時代の変化の影響は、どの日記にも多かれ少なかれ感じられるのですが、生活自体がそれに見合って変わるわけではありません。まして、時代の変化の意味を考えるのに必要な)(言葉の正しい意味での世界観を、長い泰平の世を過ごして来た民は持っていません。いや、世を統べる為政者の多くも、将来を見通すほどの見識を持たず、尊皇と佐幕、攘夷と開国という、後世からみれば極端に過ぎる二者択一の間で、立ち往生したり、右往左往したりしていたのでした。

 下級武士や町民の多くは、身分制度の下で変化に対して受動的であるしかなく、日記が受動的で静的であるのは必然でした。そうした日記は、当然ながら全体として退屈で、通して読むのは苦労です(私にはほぼ無理でした)。とはいえ、当時の日常の記録としての面白みや価値があります。また、静的な日常の記述の中に変化の萌しが記されていると、それは貴重な発見となります。だからこそ、日記を抜粋して勘所を解説する新書や文庫が、多数出版されているわけです(私も大いに参照しました)。

 岩崎弥太郎が時代の変化に巻き込まれたのは、幕末の長崎への派遣命令という他動的な原因によるものでした。しかし、任務を託された弥太郎は、そこで能動的に行動します。その証拠となるのは、他でもない彼の日記です。一例を挙げれば、長崎時代に限らず、彼の日記中に「不遇」という語が頻出することです。

 この「不遇」は、「不運により才能にふさわしい境遇を得られない」ことではなく、単に「えなかった」という意味です。弥太郎は約束がない時でも人に会おうと自ら動き回るので、「不遇」の機会が増えてしまうのです。この語に、彼の能動性の一端が表れていると言えます。弥太郎ほど多く「不遇」の二文字を書いた者は他にいないのではないか、と私は想像しています。

 もちろん、それでも所詮は日記ですから、全体としては、第三者がただ読んで面白いわけではありません。それでも、弥太郎の能動性と行動力の故に、あまり退屈せずにすむのは確かです。ところで、弥太郎の日記の特長は、出会った歴史に残る人物たちや、彼の能動性、行動力に尽きるわけではありません。以下、次回。

文献
『岩崎彌太郎日記』岩崎彌太郎 岩崎彌之助 伝記編纂会、昭和50年(トップの日記本文の写真は同書より)
『近江商人 幕末・維新見聞録』佐藤誠朗、三省堂、1990年
『世田谷代官が見た幕末の江戸 日記が語るもう一つの維新』安藤優一郎、角川SSC新書、2013年
『幕末維新京都町人日記-高木在中日記-』内田九州男、島野三千穂編、清文堂出版、1989年
『新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む』大岡敏昭、水曜社、2019年